紅茶/紅茶関連情報

スリランカ紅茶紀行(2ページ目)

セイロンティーのふるさとスリランカを訪問。第1回目は、セイロンティーの父と呼ばれるジェームス・テーラーゆかりの地、紅茶博物館、紅茶研究所。

桑原 珠玉

執筆者:桑原 珠玉

紅茶ガイド

セイロンティーの父 ジェームス・テーラー そのゆかりの地を訪ねる

写真中央の長いひげを蓄えた男性がセイロンティーの父、ジェームス・テーラー(紅茶博物館資料)

写真中央の長いひげを蓄えた男性がセイロンティーの父、ジェームス・テーラー(紅茶博物館資料)

セイロンティーの歴史を語るうえで忘れてならないのが、ジェームス・テーラー(1835~1892)。セイロンティーの父と呼ばれ、スリランカ紅茶産業の基盤を築いた人物です。

その舞台はスリランカのほぼ中央に位置する古都 キャンディです。スコットランド人であるテーラーは、1851年にロンドンを発ち、1852年 セイロンにコーヒープランテーションで働くためにやってきました。

キャンディは、セイロンに入植したイギリス人により、その広大な森が切り開かれコーヒーが栽培されていました。テーラーがセイロンに到着したころは、セイロンはコーヒー栽培で有名な土地でした。

しかし、1860年代にコーヒーの木を襲うさび病菌が広がり、コーヒープランテーションは衰退の一途をたどるのです。さび病がどんどんコーヒーの木を襲うなか、何とか打開策はないかと模索しながら、キナの木栽培(マラリアに効くキニーネを抽出できる)や、お茶の木の栽培などが試みられました。

お茶の木は、1840年代にはすでに、セイロンに中国やインドから持ち込まれ、それ以前の1839年には、アッサム種の種がインドからもたらされていたようです。お茶の木は試験的に栽培されることはあっても、商業的規模で栽培される状況ではありませんでした。

ジェームス・テーラーのルールコンデラでは、試験的にお茶の栽培をしていたのですが、1867年、19エーカーの土地でお茶の木の栽培に乗り出しました。
1873年、ロンドンに送られたルールコンデラの紅茶は、とても高い評価を得たそうです。テーラーはルールコンデラに来てから、一度だけダージリンに紅茶の研究に行くため土地を離れる以外、ずっとその地で現地の人たちとともに、紅茶の生産に人生をかけたのです。

ジェームス・テーラーとトーマス・リプトンはセイロンティーの歴史に最も貢献した2人。現在では、スリランカの人たちは、リプトンは知っていてもテーラーを知らない人も多いそうですが、テーラーの力があってこそスリランカで紅茶が花開いたといえるのです。

セイロンティー発祥の地である、ジェームス・テーラーが過ごしたバンガロー見晴らし台を訪れてみましょう。
スリランカ政府保有のルールコンデラティーエステートと製茶工場

スリランカ政府保有のルールコンデラティーエステートと製茶工場

ジェームス・テーラーが紅茶栽培を始めたのは、キャンディにあるルールコンデラという地。広い茶畑の入口には訪問者を歓迎すべく、”ウェルカム”と書かれた看板が掲げてあります。右も、左も見渡すかぎり茶畑。しかし、なかなか茶摘みをしている人を見ることができません。それどころか、敷地に入って人もほとんどいません。

広大な茶畑はいくつかのパート(ディヴィジョンと呼ばれます)に区切られていて、茶摘み監督者の指揮の下、順番に回りながら茶摘みをしているそうです。葉を摘んだばかりの木から、すぐに次の茶葉を詰めるわけではないので、茶畑を区分して、順繰りに茶摘みをしているのです。
茶畑のなかでテンポ良く茶葉を摘んでいく女性たち

茶畑のなかでテンポ良く茶葉を摘んでいく女性たち

車で走っていると、やがて茶摘みをしている女性たちの姿が見えてきました。彼女たちはタミル人の女性たち。朝8時くらいから茶摘みが始まり、収穫した茶葉を一カ所に集めては、また茶摘みするということを、一日に3回(茶園によっては4回)繰り返します。途中にお昼休みやティーブレイクはあるものの、ずっと茶畑に出て、手作業で茶葉を摘んでいます。茶葉は生い茂っていますが、摘む部分は一芯二葉といってグンッと勢いよく伸びてきた柔らかい葉。深い緑色をした茶葉の海のなかで、明るい黄緑色をした若い葉が伸びています。

頭からかけた袋に摘んだ茶葉を入れます

頭からかけた袋に摘んだ茶葉を入れます

茶摘みの女性たちは、一日にして一人15キロから20キロ程度の茶葉を摘みます。彼女たちは訪問者になれているのか、カメラを向けると微笑んでくれる人もいました。

ジェームス・テーラーのバンガローに到達するには、最終的には細い道を歩いていくか、スリーウィラーという三輪自動車で行くか。かなり高いところにあります。ルーラコンデラエステートの敷地の茶畑を通る細い道を上り続け、ジェームス・テーラーバンガロー跡に到着。

写真右上に見えるのがログキャビンの一部、ストーブ。唯一残ってるものだとか

写真右上に見えるのがログキャビンの一部、ストーブ。唯一残ってるものだとか

当時貴重な生活用水だったに違いない井戸の跡

当時貴重な生活用水だったに違いない井戸の跡

バンガロー跡には、彼の功績をたたえるプレート、訪れた人を歓迎しているかのように整えられた庭。当時の様子を知ることができる唯一のものがストーブ。

ジェームス・テーラーバンガロー跡から少し下ったところに井戸の跡。井戸は現在使われておらず、枯葉などがたくさん入っていたのですが、当時は水源として非常に貴重だったことでしょう。

 
写真中央に見えるのがテーラーズシート。大きな石の椅子。ここに腰かけて、茶畑を眺めていたそうです

写真中央に見えるのがテーラーズシート。大きな石の椅子。ここに腰かけて、茶畑を眺めていたそうです

テーラーがこの地で紅茶作りを始めたころは、テーラーのバンガローが製茶工場になっていたようです。テーブルの上で、ハンドロールによって茶葉を揉みこみ、レンガのストーブを使い木炭を燃して茶葉を乾燥させるという原始的な作り方をしていたそうです。写真にもあるように、当時のものとして唯一残るそのストーブで紅茶の乾燥が行われたのかもしれません。

最初にできた紅茶はテーラー自らが「毒」というほどまずかったらしいですよ。試行錯誤の上に完成した紅茶は本当に美味しかったでしょう。次第に、紅茶を製造するための器具が使われるようになり、テーラーによる製茶機械も発明されました。

ルールコンデラはセイロンティーの歴史を語る上でも重要な茶園として、現在もスリランカ政府に保有されています。
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