セイロンティーの父 ジェームス・テーラー そのゆかりの地を訪ねる
写真中央の長いひげを蓄えた男性がセイロンティーの父、ジェームス・テーラー(紅茶博物館資料)
その舞台はスリランカのほぼ中央に位置する古都 キャンディです。スコットランド人であるテーラーは、1851年にロンドンを発ち、1852年 セイロンにコーヒープランテーションで働くためにやってきました。
キャンディは、セイロンに入植したイギリス人により、その広大な森が切り開かれコーヒーが栽培されていました。テーラーがセイロンに到着したころは、セイロンはコーヒー栽培で有名な土地でした。
しかし、1860年代にコーヒーの木を襲うさび病菌が広がり、コーヒープランテーションは衰退の一途をたどるのです。さび病がどんどんコーヒーの木を襲うなか、何とか打開策はないかと模索しながら、キナの木栽培(マラリアに効くキニーネを抽出できる)や、お茶の木の栽培などが試みられました。
お茶の木は、1840年代にはすでに、セイロンに中国やインドから持ち込まれ、それ以前の1839年には、アッサム種の種がインドからもたらされていたようです。お茶の木は試験的に栽培されることはあっても、商業的規模で栽培される状況ではありませんでした。
ジェームス・テーラーのルールコンデラでは、試験的にお茶の栽培をしていたのですが、1867年、19エーカーの土地でお茶の木の栽培に乗り出しました。
1873年、ロンドンに送られたルールコンデラの紅茶は、とても高い評価を得たそうです。テーラーはルールコンデラに来てから、一度だけダージリンに紅茶の研究に行くため土地を離れる以外、ずっとその地で現地の人たちとともに、紅茶の生産に人生をかけたのです。
ジェームス・テーラーとトーマス・リプトンはセイロンティーの歴史に最も貢献した2人。現在では、スリランカの人たちは、リプトンは知っていてもテーラーを知らない人も多いそうですが、テーラーの力があってこそスリランカで紅茶が花開いたといえるのです。
セイロンティー発祥の地である、ジェームス・テーラーが過ごしたバンガローや見晴らし台を訪れてみましょう。
スリランカ政府保有のルールコンデラティーエステートと製茶工場
広大な茶畑はいくつかのパート(ディヴィジョンと呼ばれます)に区切られていて、茶摘み監督者の指揮の下、順番に回りながら茶摘みをしているそうです。葉を摘んだばかりの木から、すぐに次の茶葉を詰めるわけではないので、茶畑を区分して、順繰りに茶摘みをしているのです。
茶畑のなかでテンポ良く茶葉を摘んでいく女性たち
頭からかけた袋に摘んだ茶葉を入れます
ジェームス・テーラーのバンガローに到達するには、最終的には細い道を歩いていくか、スリーウィラーという三輪自動車で行くか。かなり高いところにあります。ルーラコンデラエステートの敷地の茶畑を通る細い道を上り続け、ジェームス・テーラーバンガロー跡に到着。
写真右上に見えるのがログキャビンの一部、ストーブ。唯一残ってるものだとか
当時貴重な生活用水だったに違いない井戸の跡
ジェームス・テーラーバンガロー跡から少し下ったところに井戸の跡。井戸は現在使われておらず、枯葉などがたくさん入っていたのですが、当時は水源として非常に貴重だったことでしょう。
写真中央に見えるのがテーラーズシート。大きな石の椅子。ここに腰かけて、茶畑を眺めていたそうです
最初にできた紅茶はテーラー自らが「毒」というほどまずかったらしいですよ。試行錯誤の上に完成した紅茶は本当に美味しかったでしょう。次第に、紅茶を製造するための器具が使われるようになり、テーラーによる製茶機械も発明されました。
ルールコンデラはセイロンティーの歴史を語る上でも重要な茶園として、現在もスリランカ政府に保有されています。