便利な生活で本当に「豊か」になれるの?
生活は便利になったが心はどう変わったのか?
しかし、豊かさを享受している私たち自身は、本当に毎日「豊かな気持ち」で生活できているでしょうか? 実際には、次の例のように困ってしまうケースも増えているのではないかと思います。
■ 24時間電気が使えて便利になったが……
→つい夜更かしが続き、体調を崩してしまう。体を動かす機会が減って、運動不足になってしまった
● 携帯電話でいつでも連絡をとれるが……
→夜中でも休日でも会社や苦手な人から電話がかかってきて、逃げられない
● 駅の自動改札がスムーズになったが……
→前の人がちょっとモタモタするだけでも、イライラしてしまう
● 電化製品が増えて便利になったが……
→ちょっとした不具合でも、うんざり。高機能な製品が発売されるたびに目移りして、持っている物に嫌気が差してしまう
● メールで会話ができて便利になったが……
→すぐに返信がないと不安になる、相手の気持ちが分からず気を揉んでしまう。
「便利」を手に入れた代わりに、失ったもの
便利が当たり前になるとありがたみを感じなくなる
また、手にした便利さが新たな問題をつくることもあります。
たとえば、1日中電気を使える便利さが睡眠リズムを壊し、心身を蝕むリスクもあります。通信機器が普及すればどこにいてもタスクや情報検索に追われ、人間らしいコミュニケーションに時間を割く余裕もなくなります。さらには、常に進化する便利ツールの買うために、いつまでも働き続けねばならない窮屈さもついてきます。
「幸せのパラドックス」という言葉があるように、幸せは手にしたそばから価値を見失い、欲望は無限に広がってしまうもの。便利さも一度手に入れれば「デフォルト」になり、不便さが許せなくなります。さらに、幸せが生む新たな不幸(健康阻害や金銭問題、環境問題、人間性の崩壊など)にも対峙しなければならなくなります。
「不便」がもたらす思いがけない贈り物とは?
不便な生活を体験すれば何かか変わる
お腹がすいてもコンビニが見当たらない、連絡をとりたくても携帯電話が通じない、疲れてもバスやタクシーも通っていない、最近こんな不便な生活を体験していますか?
たとえば山小屋で一夜を明かすだけでも、不便の体験は可能です。蛇口をひねればふんだんに使える水も、山では限られた資源です。雑魚寝の大部屋でも、「屋根の下で温かいご飯を食べられること」に感謝せずにはいられません。
不便な環境だからこそ得られる雄大な景色や新鮮な空気、水、音色に触れれば、「豊かな気持ち」は自然に湧き起こるはず。日ごろの便利な生活を客観的に眺め、そのありがたさに気付く機会にもなると思います。
山に登った人が街に帰ると、分単位の遅れ、ささいなトラブルにもイライラしていたかつての自分に気付くといいます。不便な生活を経験したからこそ得られる豊かな気持ち、便利への感謝。ほんのひとときだけでも便利を手放し、不便だからこそ実感できる「豊かな気持ち」を、もう一度味わってみませんか?