私たちが普段運転している自動車に搭載されている、筒状になったシリンダ内をピストンが上下するタイプのエンジンを『レシプロエンジン』という。この種のエンジンの動きは、理論的に考えれば効率が悪いといえる。上下運動の両端でピストンが方向転換する際、不要な力がかかってしまうからだ。その非効率を解消するために、回転子(ローター)と呼ばれるオムスビ型の部品を用い、専ら回転運動だけを作り出す『ロータリーエンジン』は“夢のエンジン”と称された。
いまから32年前、世界中の技術者たちが夢のエンジンの実用化を目指して試作を繰り返していた。1962年夏、現在のマツダ自動車工業がその前身である東洋工業と名乗っていた頃、ロータリーエンジンの開発が決定される。通産省の輸入自由化と自動車業界再編成の動きにより、メーカーとして苦境に立たされた末の決断だった。開発チームには、当時設計部次長だった山本健一氏(のちにマツダ株式会社代表取締役社長)を中心に、若い技術者たちが集められた。
彼らは早速、ロータリーエンジンの開発競争で最も進んでいたドイツからロータリーエンジンの試作品を手に入れて試験走行を行う。しかし、当時の世界最高レベルであるドイツ製エンジンも、実用化にはとうてい及ばない代物ものだった。
なにしろ、走行してしばらくするとマフラーから白い煙が発生した。更に、およそ2万キロほど走ったところで突然エンジンがストップしてしまったのだ。白い煙はエンジンルームへのオイル漏れのため、エンジンストップは回転子がエンジン内部で激しく回転した結果、そのエッジで内壁を激しく損傷したためであった。
この二つの技術的な課題を見事に解決したのが、山本チームの、固定概念を打ち破った発想の転換である。
まず彼らは、オイル漏れの課題に対し、ゴムリングを使って防ぐことを考案してみせる。高熱を発するエンジンにゴムを使えば、融けてしまうのが当たり前だと考えていた当時、この発想は画期的だった。山本チームが実験してみたところ、ゴムは融けることなく、立派に役目を果たしたのである。
また、エンジン内部の損傷については、アルミとカーボンの混合して作ったシールを回転子の表面に付ける方法を考案する。この発想もまた従来の考え方からすれば、逆転の発想とでもいうべきものであった。当時のものの見方では、カーボンとアルミのような、比較的“柔らかい”材料を混ぜ合わせたものからは、耐久性に優れたものはできないとするが常識だった。しかし、出来上がったものは、充分使用に耐えうる強度を持った“硬い”ものだったのだ。
山本チームはその後も多くの技術的問題を、試行錯誤と逆転の発想でクリアしていき、遂に10万キロの走行にも耐えうるエンジンを完成させる。
後に山本氏は手記の中で当時のことを次のように述懐している。
「技術開発には常に難関が立ちはだかる。特に今まで誰も踏み入れたことの無い世界ほどその度合が大きい。時には技術的な絶望感に陥ることさえある。しかしこれは何としてでも避けねばならぬ。何事にも手詰まりということはない、必ずどこかに攻め手があると考える態度が必要だと思う」(『ロータリーエンジンの開発』より:関連サイト『The Rotary Graffiti』より引用)
“技術の日本”を世界に印象づけた一人の男の言葉である。