中国茶のバイブル、陸羽の『茶経』
茶の文字
それ以前は「苦菜」(苦い味のする植物)一般を指す言葉として発展してきました。そのため、「苦い」という意味を表示した「余」という文字をベースにして「茶」の字が成り立っているわけです。
陸羽の茶経には唐以前の呼称として茶、[木賈](か)、設(草冠が付く:せつ)、茗(めい)、舛(草冠が付く:せん)と呼ぶのだと記載されています。そのほかにも、[木荼]、[女宅]、選、過羅、物羅、詫、皋盧、瓜蘆など、十を下らなかったといわれています。
もっとも多く使われたのが「荼」(と)です。苦いという意味の余に草冠が付いた、いわゆる「苦い植物」を意味する言葉でした。しかし、この字は、苦い植物の総称的にも使われているので、この字で示されたものが、本当に茶であったのかは不明で、古い書物の記載に頼らざるを得ません。
唐代に「荼」という漢字から一画減らして「茶」の文字を発明したことで、他の苦菜と茶が明確に区分されるようになったのです。
「荼」(と)は、デャ、テャという茶を意味する発音が先にあり、これに漢字の「荼」を当てるようになったのだといわれていますが、その後に苦い植物の総称にもなっているので、単純に荼=茶という図式になるかどうかは、それが書かれた書物を紐解く必要があります。
さて、折角ですから、陸羽が『茶経』で茶の文字を定着させるまでに使われていた代表的名漢字について追ってみることにしましょう。
荼(と)
この字は広く長く使われたとされており、清代の有名な学者 顧炎武は『唐韻正』という書の中で「唐代の碑文をみたが、779年、798年の碑はすべて「荼」と書かれていた。841年の書や855年の書には茶と記載されていた。」としており、荼が茶に代わったのを唐代中期以降としています。
[木賈](か)
この爾雅の注釈本である晋代に郭璞によって書かれた『爾雅注』や後漢の許慎の『説文解字』という書物でも、これは茶を意味していたとされており、また、湖南省の有名な遺跡である長沙馬王堆から出土した副葬品の木碑や竹簡に記載されており、茶を指していたとされています。