海外マラソンで部門入賞狙いの大学生時代
2006年弘前・白神アップルマラソン3連覇を報じる「東奥日報」 |
平 沢:マラソン以外のことで故障するのは嫌だなと思ってサークルは辞めました。
平沢青年は、1993年12月ホノルルマラソンを皮切りに1966年10月の新潟マラソンまで、大学生時代に12回のフルマラソン大会に出場しています。驚くのはそのうちの7回までが海外の大会だということ。
平 沢:当時は、「マラソン大会といったら海外」というイメージだったんですよ。海外の大会で年代別(20歳以下)の入賞を狙ってました。
ガイド:おまけに1996年4月には、15日にボストンマラソン、6日後の21日にパリマラソン出場なんていうこともしているよね。
平 沢:ボストンには2時間27分台で走ったピッピヒ選手にずーっとついて行ったんですが、心臓破りの丘まででした。パリは2時間28分くらいのペースで行って、最後脱水症状気味になってラスト5kmが歩きです。
夕食午後3時、就寝8時の生活
ガイド:それにしても、ずいぶん走っているわけだけど、その頃は食べ物のことは重視してました?平 沢:鉄タブ、ビタミンCタブ、カルシウム剤、プロテインとか摂っていましたけど、カラダは痛いところだらけでしたね。
ガイド:単一の栄養素剤のようなものを色々摂っていたわけですね。
平 沢:そうですね。これでは総合的に栄養を摂れないですね。栄養に関する本当の知識がなくて、鉄分を摂っていれば貧血にならないだろうとか、そのレベルでしかわかっていなかったですね。
この頃の平沢さんの月間走行距離は通常300km、多い月で400kmだったというからガイドとほとんど同じです。その程度の練習量にも関わらず痛いところだらけだったといいます。痛みを我慢するのがマラソンの練習だと思っていたともいってます。まだマラソンランナーのカラダになっていなかったのかもしれませんが、現在では痛いところは全然ないとのこと。また、当時はカラダの痛みだけではなく、過食症にも陥ったとのこと。平沢青年は、波瀾万丈のマラソンライフを送っていたのでした。
平 沢:大学時代は体重制限にこだわっていたんですよ。今はお菓子とかしょっちゅう食べてますけど、この頃は、お菓子はカーボローディングの時とか休養期間以外は食べちゃ行けないと自制してたんですよ。ランチの定食でもご飯は半分残すとか、唐揚げやフライ類は衣を全部取り去って脂肪を摂らないようにとか、食事の時間も厳密で、朝食は何時、その何時間後に昼食、その何時間後に夕食。夕食後5時間起きていて8時に就寝なんて。
夜8時に寝るとなると、逆算して夕食は午後3時になっていたそうです。
精神的にも参って過食症に
平 沢:そんな風にどんどん完璧を求めていたんですね。時間がずれるとそれだけで精神的に辛くなるんですよ。サプリメントももちろん計画的に飲んで。ガイド:自分を走る機械に変えようとしていた?
平 沢:そうですね。だから体重は落とせていました。コンビニでおいしそうなものをじーっと見つめるんですよ。それで味とか思い浮かべて食べた気になって我慢する、そんなことを繰り返していたんですね。
これも悲しすぎる。マラソンってもっと楽しいはずなのに、マラソンが持つ限られた暗い要素に囚われてしまった青年がいたのです。
平 沢:大学を卒業してマラソンを辞めたら大爆発しちゃって、食べるのが止まらなくなったんです。だからダイエットをして過食症になった女性の気持ちよくわかるんですよ、経験してるから。
ガイド:でも、3年ほどの空白でまたマラソンを走り出すんですよね?
彼女にゴールテープを切る姿を見せたい
寒い天候は苦手、暑い方がいいという平沢さん。2007年の佐倉朝日健康マラソンは、強風強雨下の大会となったが優勝を遂げる |
平沢青年がこの頃付き合っていた女性との会話の中で、学生時代にパリマラソンなど海外マラソンに出場した話をしても、彼女の返事は「それは過去のことで、今その姿が見られないのは残念」というもの。それなら、マラソン大会で優勝する姿を見せてやろうじゃないかとばかりに、田沢湖マラソンと新潟マラソンに申し込む。ブランクがたたって1995年パリマラソンの記録(2時間31分44秒=自己新)にはほど遠い。その後も2時間30分切りを目標に何度もレースにチャレンジするがどうしても記録は伸びません。自分には素質がないんだろうかと自問する日々。「もうマラソンは止めようかな」と考え始めた、そんな平沢さんの転機が転職と共に訪れました。