子どもには比較すべき場とそうでない場がある
以前『「言ってはいけない」子供へのひと言とは?』(2006年3月10日掲載)という記事を書いたところ、ユーザの方からこんな投書をいただきました。「褒めて伸ばすの弊害」が成長の一過程で存在するのは理解できました。
しかし、いずれは、人が褒められるのを素直に受け入れ、その人の優れたところを認めることができるようになるべきだと思います。私は、小学校の運動会でも順位をつけないとか、通信簿を数値でつけないことなどには、賛同しません。社会に出れば否応なしに、人と比べられることばかりです。その中で、人に認められる充実感を味わい、人を認める許容を持ち、自分の存在や価値を確立させていかなくてはなりません。そうした訓練が未熟なまま、社会に出るのは子どもにとっても不幸で過酷だと考えています。しかしまた、この問題は生涯続く難しい課題だと思います。子どもに対してはどのような教育がふさわしいのでしょうか?
この『「言ってはいけない」子供へのひと言とは?』の中でご紹介したのは、家庭の中で「きょうだいを比較してしまうことが、知らないうちに子どもを傷つけてしまう」、「一方を誉めるときは、もう一方も同じように誉めてあげなければ、誉められなかったほうは自分をけなされたと同じような心証を受ける」というお話でした。
子どもの世界には、比較すべき(比較してもいい)場と、そうでない場があります。比較すべき(比較してもいい)場とは、子どもにとって公の社会である「学校」、比較すべきでない場とは、子どもにとって最後に逃げ込める安全基地である「家族」です。ですから、頂いた投書の内容と同じく、私も学校では子どもを正しく比較、評価すべきだと考えます。
ですが、家庭では親が子どもを比較したり、「あなたはダメね」と言ったりすると、その評価はそのまま子どもの自己イメージになってしまいます。親が「あなたはのろい」と言ったから、自分はのろまなんだ、などと、子どもは親の言うままに受け止めてしまうのです。
親は子どもにとって最後の砦のようなものです。外の世界で(過剰でない)競争や評価にさらされ、厳しい思いをしても、帰ってくればあるがままに受け入れてくれる親がいるということが、子どもにとって大きな救いとなるでしょう。
正しい比較が子どもを伸ばす
一方で、子どもたちが集まり、学習する場では、子どもは正しく比較されていいものではないでしょうか。自分が、他の人とどう違うのか。自分は何が得意で、何が苦手なのか。正しいセルフイメージ(自己認識)を持つことは大切ではないでしょうか?努力をしたら相応に誉められ、そうでなければきちんと批判される。比較、評価されないことによって、自分はこの程度の人間だと過小評価したり、反対に全く根拠のない自信を持ったり、誤ったセルフイメージを持っていることが、本当に良いことだとは思えません。他者への観察力や、関心が異常に低い子供たちは、そこに原因があるのではないか?と思うこともあるほどです。むしろ、きちんと評価することは、子どもの集う学校だからこそできることだとも思うのです。社会で正しく客観性を育み、家庭ではありのままに受容されてゆくことで、子どもは正しく伸びていくのではないか、そう考えます。
頭から「子どもを比べることは悪だ」などと決め付けないで。人間が成長するためには、「違い」を理解し学習することは不可欠なのです。
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