モヘンジョダロで発掘されない王宮、神殿、戦場跡
こちらはモヘンジョダロのゴミ収集場。人々は、古代としては驚くほどの美的感覚を持っていたようだ
それどころか、インダス川流域に広がる100を超える遺跡のなかに、戦場の跡さえほとんど見つかっていない。数多くの墓が出土しているが、埋葬されている人々の間には身分の差も見られない。
斧や槍や虐殺された人たちの骨が見つかっていないわけではない。それどころかストゥーパの下に虐殺された46体の遺体が発見されており、そのために「死の丘=モヘンジョ・ダロ」という名をつけられたほどだ。ただ、それらはかなり新しい時代のものであることがわかっており、インダス外の民族の襲来を受けたのではないかといわれている。
古代計画都市モヘンジョダロ
ストゥーパから見下したSDエリア。1km四方に広がるモヘンジョダロの下には、まだ多くの遺跡が眠っていると見られている。今後、もしかしたら教科書さえ書き換える大発見があるかも!? ©牧哲雄
SDエリアは城塞地区と呼ばれ、高い城壁に囲まれており、大きな貯水池が設置されている。貯水池にはガート(階段)があり、現在もインドのヒンドゥー教の村々には似たような沐浴場やガートがあることから、これも沐浴場ではないかと考えられている。また、沐浴場の他にも見晴らしのいい展望台や集会場、穀物貯蔵庫などもあり、この地区が政治機能を果たしていたことがわかる。
DKエリアは市街区と呼ばれており、上流階級の人々が住んでいたらしい。家々も大きく、道路も水路も美しく、家には完全防水の浴室や水洗式のトイレがあり、ゴミを捨てるダストシュートまである。定期的にゴミ収集がなされ、下水掃除が行われていたようだ。
VS・HRエリアは農村区で、家々は私の背より低いほどになっており、明らかにDKエリアに比べて貧しいのがわかる。といっても、道路はしっかり舗装されているし、やはり排水溝には防水加工が施されていて隙間などいっさいない。
推定ではこれらのエリアに3~4万人が暮していた。何度か洪水にあっているのがわかっているが、すべて元通りにキッチリ再建された。