世界遺産/ヨーロッパの世界遺産

ウィーン歴史地区/オーストリア(4ページ目)

音楽、絵画、建築、文学、喫茶、食事…ヨーロッパ芸術の中心地であり、アダルトな魅力で旅人を誘う世界遺産「ウィーン歴史地区」。今回はその街の魅力と、ヨーロッパ中世の半分を占めるハプスブルク家の歴史を解説する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

ウィーンの歴史1 神聖ローマ帝国とハプスブルク家の台頭

ゴシック建築の市庁舎

ゴシック建築の市庁舎。市庁舎前のクリスマス・マーケットは世界的に有名

ベルヴェデーレ宮殿

ベルヴェデーレ宮殿 ©牧哲雄

10世紀、ヨーロッパには数多くの都市が存在し、それらをまとめる国家のようなものはなかった。これらを都市連合の形で束ねたのが神聖ローマ帝国だ。

「ハプスブルク」とは、スイスにあった「鷹の城」のこと。1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれたのがハプスブルク家のルドルフ1世だ。オーストリア王になると拠点をスイスからオーストリアに移動した。1438年にアルブレヒト2世が皇帝になると、以後帝国消滅までその座をハプスブルク家が独占する。

 

15世紀にマクシミリアン1世は宣言する。「戦争は他家にまかせよ。幸深きオーストリア、汝結婚せよ」。結婚政策によってネーデルランドやルクセンブルクを獲得し、息子フェリペ1世はカスティリャやシチリアなどを、孫のカール5世はカルロス1世としてスペイン王に君臨。さらにカール5世の弟フェルディナンド1世はハンガリー王、ボヘミア王を兼ねるに至る。こうしてヨーロッパからアメリカ、アフリカ、アジアに至る広大な領域を治めることになる。

ウィーンの歴史2 カトリックの盟主として

楽友協会の内部

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地、楽友協会 ©牧哲雄

ウィーン大学

1365年に創立のウィーン大学 ©牧哲雄

フランスは東西をハプスブルク家に挟まれて、ライバルとして対立する。オーストリアの東ではイスラム教国のオスマン・トルコがバルカン半島にたびたび侵入する。ついにフランスはトルコと手を結び、オスマン・トルコはその勢いでウィーンを包囲してしまう(1529年、第一次ウィーン包囲)。

なんとかこれを撃退するも、今度はキリスト教内で宗教改革の嵐が吹き荒れ、1618年にはオーストリア、スペインのカトリック勢VSイギリス、デンマーク、スウェーデンなどのプロテスタント勢という三十年戦争がはじまる。やがてカトリック教国であるはずのフランスが反オーストリアで参戦。この戦いは30年も続き、ドイツは人口の1/3が減ったといわれるほど荒廃した。

 

スペインのハプスブルク家も戦争に追われていた。ネーデルランドではプロテスタント弾圧に対してオランダ独立戦争が起こり、北部7州は1648年に独立を果たす。スペインでは1588年のアルマダ海戦でイギリスに敗れ、無敵艦隊が消滅。西仏戦争にも敗れると、1700年にフランス・ブルボン朝のフェリペ5世がスペイン国王となってボルボン朝が成立し、ハプスブルク家のスペイン支配は終了する。
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