日本の暦と中国の暦の関係
似ている理由、似ていない理由
日本で暦ができたのは、飛鳥時代が最初だと言われています。
中国から招いた僧から暦法や天文知識を学び、朝廷の中務省(なかつかさしょう)所属の陰陽寮が暦を作りました。
「陰陽寮」というと、安倍清明(あべのせいめい)でおなじみの「陰陽師」を連想する方が多いと思いますが、もちろん無関係ではありません。当時の中国も日本も(そして現在も)暦・天文・占いは密接な関係にありました。陰陽寮は、それらを担当するお役所であったわけです。
平安時代になると、暦の専門家・天文の専門家・占いの専門家とそれぞれ分担されるようになり、陰陽師はここから特化した存在となっていきました。
少し話が逸れましたが、話を暦のほうに戻しますと、平安時代から約800年の間、日本では中国の暦をもとに、毎年暦を作成してきました。けれども、やはり中国の暦は中国のものであるので、次第に日本の実態と合わなくなってきます。そこで、日本独自の暦を作ろうという動きが出てきます。
日本独自の暦が作られたのは江戸時代
日本独自の暦が作られたのは江戸時代のことでした。江戸幕府の下で、平安時代から受け継いできた暦法と、西洋の天文知識を取り入れ、日本独自の暦が登場することとなったのです。
次に日本が大きく暦の制度を変えたのは明治維新でした。ご存じのように、江戸時代は鎖国をして日本が日本独自の文化を育てた時代でしたが、明治は、日本には一気に西洋文化が流れ込み、また、西洋文化を吸収して近代化を図った時代でした。
明治維新で西洋の制度を多く取り入れる中で、暦についても欧米と統一をはかるべく、明治5年に太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦が発表されます。そして、明治5年(1872年)12月3日が明治6年(1873年)1月1日となり、この暦が現在まで続いています。
このような変遷を経てきた日本の暦は、中国から伝わった文化が土台にありつつも、まったく同じというわけではなく、日本独自の工夫、発展、紆余曲折があり現在があるわけです。
日本の暦と中国の暦が、ちょっと似ていて、似ているけれども違うのは当然で…両者を知ることは面白く、知れば知るほど興味が募りますね。
■中国の暦を知ろう