寿屋チェーンバー組織化とカクテルブーム
左/ホームバーセット・右/かつての多摩川工場
前回記事11回ではトリスバーが興隆しはじめた1950年代前半の時代について述べた。今回はその後半からの流れを伝えたい。
敗戦という暗い世相も、朝鮮戦争(1950)による特需景気によって次第に明るさを取り戻しつつあった。
1952年には、国民所得が戦前のほぼ戦前の水準に回復する。1954年(昭和29)にはデパートでの洋酒PRも兼ねたカクテル教室を開催する。そして1950年代後半になると全国でトリスバー、サントリーバー(トリスバー上級店)が続々と誕生していく。トリスバー1号店を開業した久間瀬の提案を受けて、この2業態を『寿屋(現サントリー)チェーンバー』として組織化した。
そして戦後も10年近くが経ち世の中が落ち着いてくると、トリスバーだけでなくバー業態が興隆を見せはじめる。人々が仕事帰りに立ち寄り、カクテルを楽しむ姿も多く見かけるようになる。
昭和30年代になるとカクテルがブームとなり、さまざまな展開が繰り広げられる。『寿屋洋酒チェーンバー』として組織化するその少し前(同年)にPR誌『洋酒天国』(初代編集長・開高健)を刊行しており、これをチェーンバー育成のために配布した。名作といえる見事な編集のPR誌であった。
同時期、一般公募によるカクテル作品を募集した『ホーム・コクテール・コンクール』を開催。グランプリ作品にはノーメル賞授与するというものだった。これはトリスバーやサントリーバーでカクテルに親しんだ人たちが、家庭でも楽しむようになりはじめていたことから企画されたものである。
もはや戦後ではない、といわれ、生活環境が大きく変わりはじめていた。団地族、家電製品が一般市民の憧れとなる。茶の間がキッチンテーブルを備えたダイニングに変わろうとしていた。お父さんたちはサイドボードを置いて、ウイスキーが収まった絵を想い浮かべる。
つづいて「ヘルメスベビーカクテルセット」(1958/昭和33)を開発。家庭向けのホームバーセットであり、毎月お金を払うと、スピリッツやリキュール、ウイスキー、そしてカクテル器具が送られてきて6ヵ月で基本的なものが揃うシステムであった。
1960年代になると各地でカクテル教室を開催するまでになった。まず1960年(昭和35)に「銀座サントリーカクテル教室」を開設した。
そしてトリスバー。1961年の“トリスを飲んでハワイに行こう!”キャンペーンにより大盛況となり、ブームの頂点を迎えたのだった。
この間、世の中は高度経済成長へ向かいはじめる。大量生産の時代のはじまりだった。
1958年(昭和33)には首都圏の生産拠点として神奈川県川崎市に多摩川工場(現サントリー商品開発センター)が完成した。これは東京を中心とする首都圏の洋酒市場が驚異的な伸張をみせ、また関東以東の比重増大にも対応するためであった。
当時としては衛生面も含め、最新鋭設備のオートメーション工場であり、大きな生産能力を有したものであった。(『山崎蒸溜所100周年13/1960年代ウイスキー興隆のはじまり』はこちら)
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