目の前の快楽と、長期的な成長感……その狭間で苦しくなるとき
自分を癒す欲求と高める欲求、どちらも人生には欠かせない要素
あるいは、快楽に浸っているうちに自分を向上させることから目をそらしていたことに気づき、急に「何かをしなければ」という焦燥感に駆られることはないでしょうか?
そもそも人間は、死ぬまで「欲求」との格闘の人生を送る生き物です。欲求にはさまざまな種類がありますが、代表的な対概念に「目の前の快楽を求める欲求」と「自分を向上させる欲求」とがあります。
「目の前の快楽を求める欲求」とは、試練を回避し厳しさから逃れ、自分を甘えさせて楽しいことだけに浸っていたいという欲求です。こうした目の前の快楽という小さな報酬があってこそ、人の心はつらいことがあっても耐え抜くことができ、悲しみから目をそらすことができます。
酒、たばこ、ごちそう、娯楽、性的刺激など、私たちの身の周りにはこの欲求を満たすためのたくさんの商品やサービスであふれており、快楽への欲求を誘います。
しかし、そうした目の前にある手軽な快楽だけを満たして生きていても、人は心から満たされることはありません。その欲求に従って生きていても成長がなく、大きな達成感を持てることもありません。
心の中の自分や親のイメージが、「堕落しそうな自分」を厳しく叱る
そうした危機を回避するために、人間は「自分を向上させる欲求」を駆使し、堕落しそうになる自分を叱咤しながら、必死で前進しようとします。「生きる目標」を設定し、それを達成することで大きな喜びという報酬を得ようとするのです。しかし、この「自己向上」の欲求にも限りがありません。一つの目標を達成すれば、またそのすぐ後には次の目標が現れます。当初の目標はたわいのないもので、多くの場合は、ただ「メダル」を手にしたい、「メダルの数」を増やしたいといったものです。しかし、いくつかのメダルを手にしていくうちに、次はその色や質、種類にもこだわり始めます。
この「自分を向上させる欲求」を効果的に使うために、私たちは「自分を批判するもう一人の自分」や「自分を批判する父母」のイメージを活用したりもします。心の中に潜む自分や親のイメージが「このままでいいのか?」と冷ややかに問いかけ、現状に甘んじて堕落する自分を批判し、堕落の罠に落ちないように監視していくのです。
このように、自分の中にある厳しいイメージを使って自分を監視することは、歩むべき道を思い出させ、緊張感を持たせるための有効な手段です。しかし、その厳しさのイメージに振り回され縛られていくと、疲れた自分を癒すことも慰めることもできなくなり、心身のバランスを失ってしまいます。
二大欲求をバランスよく使い、一生をかけて自分を成長させる
一生という長い時間を生きるには、二大欲求をバランスよく活用していく意識が必要
私自身がカウンセリングの場でよく目にするのは、特に若年層の人々の悩みで、この二つの欲求のバランスよく使いこなすことができず、片方の欲求の働きが極端に偏りすぎ、その結果、もう一方の欲求がリバウンド的に急騰して葛藤しているケースです。
例えば、自己向上の欲求を短期間で結果を出すことに使い過ぎて、心身の健康を害していく人。希望する結果がすぐに得られないことに絶望して、快楽におぼれる自分を嫌悪する人……。このように、どちらかの欲求が極端に働き過ぎ、その結果のリバウンドによって心身のバランスを崩していく人、社会の中で自分を活かす自信を見失っていく人は少なくありません。
もちろん、若者ばかりではありません。体力の衰えと人生目標の転換の課題に直面する中年期、職業人や親としての役割の喪失感を経験し、死への恐怖が高まりやすい高齢期など、人生の節目を迎える時期にはその予期せぬストレスからこの二つの欲求のどちらかが急激に高まり、心身のバランスを崩していく例が少なくありません。
大切なのは、二つの欲求をバランスよく活用しながら、一生という長い年月をかけて自分という存在を活かしていく意識です。人は死ぬ瞬間まで発達し、成長していく存在です。目の前の快楽におぼれず、また、短期で結果を出すことのみにこだわって自分を追い詰めすぎず、二つの欲求をバランスよく味わいながら、一生をかけて成長し続けていきましょう。