今こそ、愛を取り戻そう
愛ってよくわからないけど、と往年の大スタア(「スター」じゃなくて「スタア」。昭和な方はきっと賛同してくださるはず)が歌っていて、そのフレーズがなんとなく好きで、よく口ずさんでいました(そんな変な子どもが大きくなって、愛を知ったけど、やっぱり本当はよくわからないままかもしれません…)。みんな、愛しあってるかい?と、別のスタアが叫びました。はちゃめちゃで、ヤバイことをたくさんしてきたロッカーだからこそ、オーディエンスはマジで「愛しあおうぜ」と思えたはず。いかにも品行方正な方が「愛」を語っても、どこかうさんくさく響きがち…それが愛の不思議なところです。
マザー・テレサは「愛の反対は無関心である」と述べましたが、けだし名言です。恋愛って容易に憎しみにも転化しますが(ゴトウも20代の終わり頃、そういう経験をしました)、たとえ憎んでいてもそれは愛の裏返し(いつまたひっくり返るかもわかりません)。しかし、その人が苦しんでようが死んでいこうが知ったこっちゃない、そういう無関心こそが、愛の敵なのです。
世の中には、その名の下に人を不幸にしがちな、括弧付きの「愛」というものがあります。「愛国心」とか「家族愛」なんかがいい例じゃないでしょうか。そういう「愛」を振りかざす人たちは、「あなたのためを思って」と前置きしつつ、その実、相手をコントロール(支配)しようとします(口癖は「そんなことして恥ずかしくないの?」です)。「そのままでいいんだよ」と言えること、ダメなところまで含めてまるごと承認すること、それがなかなかできないんだと思います、人間って。
「愛」に「道徳」をからめると、時として最悪の事態を引き起こします。ベッキーさんがいい例です。ちょっと転んじゃった人を、みんなで寄ってたかって踏んづけたり唾を吐きかけたり、挙げ句の果てに泥の沼に沈めたり…そういう卑劣さこそ「ゲスの極み」と言うのではないでしょうか。
汚職疑惑で大臣を辞職した某代議士(現場の写真や音声もあるのだから有罪の可能性が高いですよね)などはまだ議員を続けている一方、不倫した方は議員辞職に追い込まれる。何かがおかしい、と思いませんか? なんだか今、世の中からどんどん愛が消えて行ってる気がします。
法律的に見ても、浮気とか不倫というのは別に処罰の対象ではなく、せいぜい離婚の理由になるくらいのものです。浮気されたり、恋人を寝盗られた人の恨みというのは凄まじいものがある。それはよくわかります。だからといって、第三者がどうこう言うことじゃないし、(特に女性の)不倫こそ極悪非道!と一斉に叩く風潮は、この国を住みにくくするだけだと思います。
恋愛(セクシュアリティ)ってそもそも非合理なもので(理屈じゃないですよね?)、人間(社会)というより神(世界)の領域なんじゃないかと思っています。どうしてこの人を好きになったのか?というのは、自然界になぜあのような多様な生物がいるのか?ということと同様、人知を超えた何かです。(再び『キャロル』を思い出していただきたいのですが)たかだかある時代に「常識」とされていた「道徳」という名の(迷信にも似た)ルールによって、この愛はOK、この愛はダメ、なんて裁いたりできるでしょうか。愚かと言うほかないでしょう。
時代を遡っていくと、恋愛のありようが今とはずいぶん異なることがすぐにわかると思いますが(普遍/不変の恋愛道徳なんて存在しないも同然)、そもそも「模範的な恋愛」に縁がなかったゲイの僕らは、そういう無根拠な「道徳」の呪縛から自由だと思います。とあるセックスワーカーの女性が昔、「ゲイの人たちには翼が生えている」と仰って、いたく感動したことがありましたが、僕らは地上を這いつくばって醜態を晒す(ゲスな人たちと一緒になって不倫を叩く)のではなく、もっと自由に、華麗に空へ舞い飛ぶ(神の領域に近づく)ことができるのではないか、より未来的な、新しい愛の形を創造できるのではないか、と思ったりします。
恋人がいるいないにかかわらず、セックスするしないにかかわらず、周りの人を笑顔にできる、その幸せを祝福できる、いろんな人に愛を与えられる人生って素晴らしいと思うのです。たとえ仕事が猛烈に忙しくても、お金がなくても、病気や障がいを持っていたとしても、一人ひとり誰もが、愛する人たちのために何か素敵な贈り物をすることができます(笑いだったり、感動だったり、セクシャルな歓びだったり)。それを自身の幸せと感じられることこそが愛の本質なのではないでしょうか(失敗した人を叩くような行為から最も遠いものです)。自分はあの人のために何をしてあげられるだろう?と想像/創造するところに愛が宿ります。そういう人が少しでも多くなれば(そういうふうに変われれば)、世界は少しだけよくなる。そう思いませんか?