華城の歴史 1. 親子の確執と悲劇

北舗楼と華西門

右が北舗楼、左奥が華西門。城壁に掲げられた旗の色は方角によって決められており、東は青、西は白、南は赤、北は黒、中央の華城行宮が黄となっている

北暗門

秘密裏に兵士や物資を運ぶために造られた北暗門

華城の歴史を知るためには、華城を建設した正祖の父・荘献世子(そうけんせいし/チャンホンセジャ)と祖父・英祖(えいそ/ヨンジョ)の物語からはじめなくてはならない。

朝鮮王朝第21代国王・英祖の時代、宮廷内では少論派と老論派の派閥争いが激化していた。英祖は少論派から支持を得ていたが、母・淑嬪崔氏(しゅくひんさいし/スクピンチェシ)がムスリと呼ばれる下女の出だったこともあって反対派も多く、老論派から王の資格を糾弾されたり命を狙われることさえあった。

 

西弩台

連弩を放つことを目的とした西弩台

その英祖の次男が荘献世子だ。英祖は2歳の頃に荘献世子を皇太子に冊立し、派閥争いに負けぬよう厳しく育てた。その甲斐あって幼少時から神童といわれ、14歳の頃には聴政といって王の代理として政治を行うまでになっていた。荘献世子は父と同様、少論派の学者に学問を教わっていたこともあって少論派にくみしていたが、自由や自分の意思をいっさい認めてくれない父と次第に対立するようになっていた。

英祖は少論派と老論派を等しく採用してバランスをとろうとしたが、老論派は親子の仲を裂こうと荘献世子の悪行をたびたび英祖に触れ込んだ。加えて母・貞純王后(ていじゅんおうごう/チョンスンワンフ)も老論派につき、荘献世子をおとしめたという。

 

こうして親子は決定的に対立。1762年、荘献世子は英祖に捕らえられると米びつの中に閉じ込められ、8日後に餓死したという。息子の死を聞いた英祖は自分の行為を激しく悔い、荘献世子に「思い悼む」気持ちを込めて思悼(しとう/サド)の号を贈り、荘献世子の息子を皇太子に任じた。これがのちの名君・正祖だ。

華城の歴史 2. 正祖の父への思い

華城行宮の正門、新豊楼

華城行宮の正門、新豊楼。「新豊」には正祖の新しい故郷=水原を思う気持ちが込められている

東北角楼

東北角楼の美しい意匠

第22代国王・正祖もすなおに王位に就けたわけではなかった。老論派の執拗な反対を受け、「罪人の子は王になれない」と糾弾されたことから英祖の長男の養子になるなど苦労を重ねた。

1776年に王位に就くと自分が荘献世子の子であることを高らかに宣言。老論派の勢力を削ぐと同時に科挙などの登用制度を拡大し、身分にこだわらずに有能な者を積極的に採用・教育して派閥争いの解消を図った。そして争いのベースとなっていた朱子学のような思想的なものを極力排除し、中国の清やヨーロッパの技術を積極的に採用して実際に役に立つ学問=実学の普及を目指した。

 

挙重機のイラスト

記録に残された挙重機。クレーンの一種でテコや輪軸を利用して石材を持ち上げる

こうした政策のおかげで文化・教育が充実して朝鮮王朝の文化は大いに栄えた。そして父の無念を晴らすため、満を持して新しい都の造営に着手する。

1789年、正祖はまずソウル近郊の梨峰山にあった父の墓=永佑園を風水的にすぐれた水原の顕隆園(のちに隆陵に改称)へ移す。そして1794年、当時最高の科学と風水を駆使して理想都市=華城の建設を開始した。当初完成までに10年以上を費やすと見られていたが、東洋と西洋の建築技術の併用、挙重機などの重機の発明、石材とレンガを併用する築城法の開発、37万人の労働力の投入などの結果、1796年に竣工した。

 

烽敦

烽敦。一種ののろし台で、ここからのろしを上げた

残念ながら華城の多くの建物は朝鮮戦争などの影響で破壊されてしまったが、築城の様子は華城城域儀軌という記録に詳細に記されていたため、これをもとに1975~1979年に忠実に再建された。これが現在見られる華城だ。

なお、荘献世子を描いた韓国映画に『サド』、韓流ドラマに『大王の道』、淑嬪崔氏を描いたドラマに『トンイ』、正祖を描いドラマに『イ・サン』などがある。訪ねる前に見てみてはいかがだろう。