世界的バレエダンサー・小林十市さんを兄に持つ花緑さん。やはりバレエには小さい頃から親しまれていたのでしょうか。
花緑>子供の頃、兄と一緒に小林紀子バレエアカデミーに通っていたことがありました。僕がバレエを始めたのは兄のため。最近は日本もだいぶバレエをやる男の子が増えましたけど、その当時は非常に少なかったですね。母が兄にバレエをやらせたがったのですが、当時兄は小学校五年生くらいとちょっぴり多感な時期で、“バレエなんてやるのイヤだよ、弟が一緒にやるならいいけど”と言って。母が“じゃあお前もやりなさい”と、半ば強制的に始めることになった次第です。
ところが肝心の兄が階段から落ちて腕の骨を折るケガをして、レッスンが始まるという日に行けなくなってしまった。“じゃあお前だけとりあえず
行きなさい”と言われ、ひとり稽古に通い始めました。だから、兄が行けなかった半年間分、僕の方が先輩なんです。これは後になって兄が言っていたことですが、半年後に初めて稽古に行ったとき、更衣室から出てくるのが非常に恥ずかしかったそうです。でも僕はすっかり場に慣れていたから、さっさと稽古着に着替えてどんどん先に行ってしまう。“おいおい、九、待ってよ!”と慌てて僕を追いかけていたとか。その後年末に『くるみ割り人形』のシーズンが来て、兄と一緒に舞台に立たせてもらいました。それが最初で最後の兄とのバレエ共演です。
結局僕がバレエを習っていたのは一年かそこら。小学校三年生に上がった
ときにバレエ教室の女の子が同じクラスになって、母に“恥ずかしいから辞めたい”とお願いしたら、“あなたは落語家になるんだから辞めていいのよ”とあっさりお許しが出た。たとえでいうと、兄がスペースシャトルの本体で、僕はサブエンジンみたいなもの。ある程度いって十市が軌道に乗ったら、お前はお役目を果たしたからもう離脱しなさいと(笑)。そこで僕も開放されて、落語修業がスタートしたという訳です。ただ兄はそのまま小林先生のところにいたので、僕もたびたびバレエを観に行く機会がありました。落語家の世界に育ちながらも、兄を通してバレエにはずっと触れていたんですね。
バレエ教室に通っていた当時は、甲が出ると大変評判でした。とはいえ一
年で辞めてしまうへなちょこですけど(笑)。こうしてバレエダンサーの方とご一緒していると、もしあのままバレエをやっていたら自分の人生はどうなっていたんだろう、今頃は現役で踊ってなかったかな、兄弟で踊っていたらどうだったんだろうとか、いろいろ妄想が膨らんでしまいます。
ただバレエは辞めましたけど、その後ジャズダンスを始めています。柳昭子先生のところに17歳から真打ちになる前の21歳まで通っていて、シアターアプルの本公演にも本名の小林九で一回だけ出してもらいました。当時はジャズに夢中で、一週間に7レッスンくらい受けてましたね。そこでやっぱり基礎はクラシックなんだ、バレエが大事なんだなと思ったり。あのときの経験は多少役に立っているらしく、演劇の舞台でダンスっぽいシーンがあると、なんちゃってピルエットをやらせてもらうようなこともありました(笑)。