貧乏生活だからこそ「恵み」を幸せに感じる
「ない物づくし」の生活だからこそ、「ある物」を愛おしく感じる
「たのしみは あき米櫃(こめびつ)に 米いでき 今一月はよしといふとき」
「たのしみは まれに魚烹(うおに)て 児等皆(こらみな)が うましうましと いひて食ふ時」
「たのしみは 銭なくなりて わびをるに 人の来たりて 銭くれし時」
空いた米櫃を眺めていたら、米をもらえて「ラッキー」と感じたとき。たまにごちそうしたら、子どもたちがおいしそうに食いつく笑顔。金欠で困っていたときに、誰かからお金をもらえるありがたさ!――ない物づくしの生活だからこそ、こんな小さな出来事が、幸せとありがたみを持って感じられるのでしょう。
お殿様も感服!―幸せは「ものの見方」次第
私たちの幸福感も、自分自身が生活のどの部分に注目しているかによって、変わってくるように思われます。橘曙覧は、貧乏生活の中の「足りないもの」ではなく、「見つけたもの」や「恵み」を数え上げることで、52首もの「たのしみ」を紡ぎ出すことができました。そんな曙覧の発想力は、なんと時のお殿様の心も動かしたのだそうです! 新井満さんの『楽しみは-橘曙覧・独楽吟の世界』(講談社)のあとがきでは、曙覧の庵を訪れた福井16代藩主の松平春嶽の言葉が紹介されています。春嶽は、歌を詠みながら心豊かに貧乏日常を楽しむ曙覧の生き方に感動し、城の中で贅を尽くした生活をしているのにどこか満たされない自分を見つめながら、感慨深く随筆をしたためたのだそうです。
豊富な財を持ち、たくさんの物に囲まれているからといって、幸せになれるわけではありません。日常を幸せに感じるのは、本人の「ものの見方」一つなのです。あなたも、ぜひありふれた日常のなかにある、たくさんの幸せを数えてみませんか?