第一回公演はドストエフスキーのテキストをモチーフにした『分身』。
この作品に着目したのは何故でしょう?
『白い劇場』稽古場にて
自分の分身がいるというショッキングな出来事があって、男が壊れていくけれど、実はその分身に対して思い入れがあるのではと。分身を見たときに驚愕しながら、“ああやっぱり”って思うところなんか、すごく分かる気がする。ただ不条理というのではなくて、自分と対峙したり、相手を見て自分を理解したりする。その相手を自分だとすると、まさにマイムになる。自分の中に他者を設定するというすごくマイム的な発想が原作に仕込まれていて、これを掘り出していくのは面白そうだなって直感があったし、このカンパニーを始めるにあたり最初に取り上げるにはいい作品だなと思いました。
みなさんそれぞれ役柄はあるのでしょうか。
水と油は4人だったし、デラシネラも5人くらいの作品が大半でした。その全員がほぼ等分に役割を持っていて、主役もアンサンブルになれば、アンサンブルも急に役で出てきたりする、そこの妙で見せてきてた部分があったと思う。ただ今回は違う方向性を模索していて、それで試行錯誤している気がします。
例えば3人でできちゃうことを、13人でやるとする。3人に役柄を与えて残り10人はコロスでいる、というのはお芝居的発想ですよね。そうではなくてもう少し混ぜ込んでいきたいと考えたとき、迂闊にやると中途半端になる。でもコロス対主役と割り切れるかというと、それをあまり面白いと感じられない自分がいる。物語がある場合はそれでいけるけど、特にピースでつないでいったときに、残りの10人とならないようにしたい。“何であのひとたち出ないんだろう? あ、アンサンブルのひとね”って読まれる感じがイヤ。せっかく13人いるんだから、次誰が出て来るかわからないぞ、っていうスリリングさを求めているんですけどね。