“落ちこぼれ”だった少女時代

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米沢唯さん

新国立劇場バレエ団のファースト・ソリスト、米沢唯さん。2010年にソリストとして入団し、翌年には早くも新作バレエ『パゴダの王子』の主役に抜擢。新国立劇場バレエ団きっての精鋭であり、日本バレエ界の未来を担う期待の星である。

東京生まれ、愛知育ち。バレエを始めたのは三歳のころ。
「保育園のおゆうぎが大好きで、音楽がかかるとすぐ踊り出すような娘だったんです。それを見て、母がバレエをやらせてみようと。“バレエを習ってちょっとスタイルが良くなって、お洋服が似合うようになれば”というくらいの軽い気持ちだったみたいです(笑)。でも、せっかく始めるならいい教室で、という考えもあったらしくて……」

母親に連れられ、『塚本洋子バレエスタジオ』の門を叩く。当時、同校の
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発表会で『海賊』を踊る米沢さん。小学校六年生のころ

生徒だった荒井祐子さんがローザンヌ国際バレエコンクールで入賞し新聞を賑わすなど、コンクール受賞者を多く輩出する名古屋の名門バレエ教室として知られていた。

バレエを始めた当初は、意外なことに “落ちこぼれ”だったという米沢さん。今でも当時の様子は鮮明に記憶しているという。
「最初はホントにひどかったですね。一番や五番ポジションも全部インになってしまって、“出来ない”ってベソかいたり(笑)。両親も“向いてないから辞めさせようか”って話していたらしんですけど、母が“辞める?”って聞くと“やる”って言う。負けずギライな娘だったみたいです。きっと母も、私の性格をわかってて聞いてたんでしょうね(笑)」
たとえ出来なくても、踊ることは誰よりも好き。楽しそうにレッスンを受ける彼女の姿は、先生の目を引いた。早くから選抜クラス入りを果たし、ますます彼女のバレエ熱は高まってゆく。

初めてトウシューズを履いたのは小学校1年生。同じ年、初めてのコンクールに挑戦する。教室の先輩たちに連れられて、米沢さんは最年少での参加だった。
「当時の映像を見ると、よくそれでコンクールに出たなって思うような踊りなんですが……。あの時は何故か、“私、頑張ってるから絶対に一位だな!”って信じてました(笑)」

自信満々で挑んだコンクール、踊ったのは『ブルーバード』。しかし、先輩たちがズラリと上位入賞を独占するなか、米沢さんだけは予選落ち。
「こんなに大勢の人がバレエをやってることも知らなかったし、自分より上手な人って沢山いるんだということを初めて知りました。井の中の蛙が、初めて世界を知った瞬間でした」

その後もコンクールに挑戦し続けるが、入賞には至らない。転機となったのは、小学校四年生のとき。“今度こそ通るかも!”と思って挑んだコンクールで、やはり予選落ちの結果に終わる。
「今までの練習法は正しかったんだろうか、自己満足でやってたんじゃないかって、そのとき初めて自分を振り返ったんです。そこで、ちゃんと考えて踊らなきゃいけないんだということに気付いて。ひとつ注意されたらそれを応用できないか、コンクールの時も決められた時間の中で何を見せるべきかなど、いろいろ考えて踊るように心がけました。あれがたぶん、私の最初の分岐点だったような気がします」

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発表会で『バヤデール』を踊る米沢さん。中学二年生のころ

“気づき”が功を奏し、翌年出場したコンクールでようやく初入賞を果たす。静かに見守っていた両親も、このときの喜びは大きかった。
「家に電話をしても誰もいないからどうしたんだろうと思ったら、私を置いてふたりだけで祝杯をあげに行ってしまって(笑)。でも、本当に喜んでくれたのはその時くらいですね。あとはトロフィーや楯を持って帰っても、“嵩張るから”って捨てられちゃったり(笑)。ふたりとも賞を獲ったからって褒めるようなタイプではなくて、それが逆に良かったと思います。お陰で、賞をもらって有頂天になるようなことからは免れました。何より、コンクールと本当の舞台は違いますし……」

初入賞を皮切りに、国内外の名だたるコンクールで次々と賞を手にしていった米沢さん。
彼女にとって、コンクール出場はある意味就職活動でもあったという。
「小さい頃から“私はバレリーナになる!”と決めていました。将来は海外に行きたい、外国で踊りたいという想いがあって、そのためにはとにかく海外のコンクールに出て、ディレクターに私を売り込むしかないと思っていたんです(笑)」

彼女の想いは実を結んだ。2006年に出場したUSAジャクソン国際バレエコンクールで銅メダルを獲得。ここでアメリカ・サンノゼバレエ団のディレクターにスカウトされ、プロのダンサーとして入団契約を結ぶことになる。