羽生善治の凄さとは?
羽生善治の凄さとは?
相手十分での羽生
柔道の試合で、組み手の攻防が長々と続く光景をご覧になったことがあるだろうか。柔道家は、まず相手より有利な組み手を確保することに全力を尽くす。これを組み手争いと言う。また、大相撲の中継で解説者がこう語るのをお聴きになったことがあるかもしれない。「とにかく、相手得意の右4つに組んではいけません。なんとか自分十分の左4つにもっていきたいところです」
柔道、相撲に限らない。ボクシングであれ、サッカーであれ、野球であれ、もちろん将棋も同じだ。勝負というものは、いかにして自分に有利な態勢に持ち込むかが大きな課題となる。だから、敗者の弁でこんな言葉が多く見られる。
「自分の○○ができなかった」
ところが、羽生は違う。あえて相手の得意戦法に入り込むことをも拒まない。いや、むしろ、それを楽しんでいるようにさえも思える。だから、やられた相手はたまらない。もし敗れてしまえば「自分の○○ができた」上での敗北を喫することになるからだ。これは「負けた」以上のショック、「潰された」感覚となる。繰り返す。こういう観点からも、羽生の将棋は「勝負」という範疇を越えているのだ。
全否定する羽生
ガイドは、羽生の対局を解説するプロ棋士の言葉を聞いたことがある。いわく……。「この手は、相手に対する全否定ですね」
全否定……。なんとも恐ろしい言葉である。断っておきたい。プロ棋士は誰もが超天才である。幼い頃から周囲を驚嘆させた全国の天才少年少女が集まり、さらに、ほんの一握りの超天才だけが、プロ棋士になっているのだ。そのプロ棋士をして全否定と受け取られる将棋が羽生の猛手なのだ。
第3者として将棋を見ることができる解説者だけではない。現時点で「永世竜王」を獲得した唯一の人類・渡辺明は羽生との敗局を当事者としてこう語ったことがある。
「これは、私にとって、それまで培ってきた将棋観を全否定された敗戦ですね」
ため息をつく羽生
ここで、あなたが野球選手になった場面を想像してほしい。相手ピッチャーが投げてきたカーブ。スイングしたものの平凡な内野フライになってしまった。「オーライ、オーライ」グローブを構えるセカンド。頭を抱えながらも一塁に走るあなた。万事休す、あなたは願うだろう。たのむ、エラーしてくれ。奇跡か、はたまた願いが天に通じたか、セカンドが落球。あなたは喜色満面、ベンチはお祭り騒ぎになるだろう。相手のセカンドには気の毒だが、勝負なのである。敵のミス=こちらのラッキー、これが勝負の世界だ。ところがである。ところが、羽生は違うのだ。相手のミス、将棋で言うところの疑問手に対して、喜ぶどころか、なんと、ため息をもらすのである。
「ここでその手か……。がっかりだ……」
もちろん声には出さない。しかし、物憂げなため息は相手棋士に届く。ある棋士はこう話してくれた。
「終盤、ちょっと自信のない手を指しちゃったんですよ。そしたら、羽生さんがふうってため息をついたんです。これ、たまらないんです。ホントに落ち込んじゃいます」
注意深く観ていれば、テレビ観戦している私たちにも届く。これが羽生なのである。勝負なら誰もが喜ぶ場面でもらされるため息は、私が羽生は勝負師ではないと主張する根拠の一つである。さらに……。
怒る羽生
格闘家の多くが語る言葉がある。「敵の心を折ることが重要だ。折らなければ、相手は立ってくる」
心を折る……。この言葉を最初に使ったのはプロレスラーの神取忍だそうだが、今や、多くの勝負で使われている。皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。心を折られた者は沈み、折った者は喜びを手にする。これが、勝負の鉄則だ。
羽生に目を移そう。その猛手により、心を折られた相手が、もはやこれまでと投了する。たしかに、まだ詰まれてはいない。もしかすると、まだ何かの手があるかも知れない。だが、相手は羽生。もう無理だと判断したのである。「負けました」と頭を下げる相手。さあ、羽生はどうするか?安堵するのか、ため息をつくのか?
実は両方とも違う。驚くなかれ、なんと羽生は怒るのである。時として、その怒りをあらわにすることさえある。タイトルを争ったこともある山崎隆之に対して、その怒りをぶつけた羽生。そのシーンは次の書に詳しい。
余談だが、この書のタイトル「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか」もすさまじい。ご一読をおすすめする。
猛獣の求める共鳴
敵の十分な態勢にあえて入り込む。相手のミスに落胆する。心が折れた相手に対して怒る。いったい、羽生とは何なのか?私は「猛獣」であると書いた。ちょっと待て、猛獣が獲物のミスに落胆するのか?そう思われる方もいるだろう。たしかに、そんなトラは見たことがない。だが、実はである。実は、野生動物においても、獲物を襲うという行為は、こんな面があるのだ。脳科学者・養老孟司はその著書「脳が語る身体」の中で、こう書いている。
「野生動物が他の動物を捕まえるのも共鳴なんです。あの動物はどこでどうやって暮らしていて、どう考えているから、こうやれば捕まる、というような論理ではない。よく勘と言いますが、あれは一種の共鳴で、無意識に判断している面がある」
獲物を襲うという行為は共鳴なのだと養老は語る。これを羽生に当てはめてみると、ガイドは納得なのである。羽生の獲物は敵でもなければ勝利でもない。彼が求めてやまぬものは共鳴なのだ。だから、より共鳴しやすいように、相手の手の中に入り込む。そして、共鳴できなかった時にため息をつく。さらに、共鳴を奪われてしまった場合は激怒するのである。
過去の記事(参考「自分の頭で考えるということ」)で紹介した、ある棋士の言葉「羽生さんは、相手が強ければ対局料が100円だって指しますよ。いや、お金払ってでもしたいんじゃないかな」も共鳴を求める欲求ゆえだとすれば頷ける。
もう一度書く。羽生は猛獣である。盤に座した時、彼は共鳴を求め続ける猛々しい獣になるのである。
【敬称に関して】
文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
- プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。
- アマ棋士の方には敬称をつけさせていただきます。
- その他の方々も職業的公人であると考えた場合は敬称を略させていただきます。
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