羽生の凄さ

羽生善治は猛獣である。過去記事(「羽生善治の将棋の凄さ~羽生マジックの真実~」「羽生善治の将棋の凄さ~相手の全力を引き出して勝つ~」)に、ガイドはそう書いてきた。猛獣は獲物を襲うとき、共鳴を求めている。これは脳科学者である養老孟司の言葉である。この共鳴を希求する姿こそ、まさしく羽生の振る舞いそのものである。

羽生は、相手の得意戦型にあえて踏み込む。そして、敵のミスに溜息をもらす。時に敵の敗北表明に怒りを表す。勝負であれば、あり得ぬ反応が対局場の雰囲気を一変させる。それは私たち多くのヒト科生物の理解の外にある行為だ。ゆえに、羽生の指し手のみに注目し、こう呼ぶしかない。いわく「羽生マジック」。共鳴を求めて止まぬ野生の姿がくっきりとその輪郭をあらわにする瞬間だ。今回はまた、別の角度から羽生を見ていこう。

獅子博兎

「獅子博兎」という言葉がある。ライオンは、たとえ相手がウサギであったとしても全力を尽くして闘うという意味だ。我々から見れば、ウサギはか弱い存在である。一方のライオンは百獣の王であり、野生の頂点に君臨する猛獣だ。だが、ライオン自身はウサギを弱いものという感覚で捉えてはいない。養老の言葉を借りれば、野獣と野獣の共鳴がそこに存在するだけなのだ。

ウサギであろうが、シマウマであろうが、バッファローであろうが、区別をしない。だからこその「獅子博兎」なのである。同じく養老によれば、「人」は線引きをしたがるという。例えば、首と顔。たしかに、首と顔は違う。だが、実際には首と顔の境は実にあいまいである。いや、ないといってもいいだろう。どこまでが首で、どこからが顔だという明確な区切りはない。

だが、「人」はそこに線引きをして分類をする。このケースで言えば、相手がバッファローであるならば全力で倒そうとするが、ウサギならば余裕だろうと線引きをするのである。ならば、その区切りを作らぬことが野生たる条件の一つとなる。もうおわかりとは思うが、ここでも私は「野生たる条件」という線を引いてしまっている。やはりガイドは「人」そのものなのである。では、盤前における羽生善治はどうなのか。

難解な検証

これまでの羽生の記事で、その野獣性について提示できたのではないかとの思いは、稚拙なガイドなりもある。だが今回の点、つまり「獅子博兎」という野獣としての特性が、その柔和な外見の中に潜んでいるのか否か。

この検証は実に難しい。一つには、これまでの特性同様に、将棋が持つ「静」という文化性が、その内面を隠してしまうからだ。将棋は、勝利の喜びすら表現において拒絶する。いわゆる「棋道」の上に成り立ち、だからこそ日本の伝統文化としての地位を得ている。これはアマチュアにおいても大差ない。

将棋を観るという行為は、「凪の海に嵐を感じ取る」ことなのである。たまたま、これまで紹介した羽生の野性は、その濃密さゆえ「棋道」の隙をついて顔を出してきたものから検証できたのである。ためいきや、怒りはアンテナにかかりやすかったのだ。だが、今回は違う。以下により、さらにその難解さをご理解いただきたい。

遭遇しないウサギ

羽生ほどのステイタスを持つ棋士になれば、必然的に相手は強者の棋士に限られてくる。常にバッファローとの闘いとなり、ウサギに遭遇することはない。かろうじて、アマチュアを相手にした指導対局という形での将棋があるにはあるが、これはあくまでも指導であり、羽生は師の立場である。闘いではないのだ。

闘い以外の場における羽生は、きわめて温厚である。ゆえに、指導対局という場で、その野獣性を発露するとは考えにくい。溜息や怒りという湧き出るような感情を羽生が出してくるとは思えないのだ。

そもそも「獅子博兎」という野獣の感性を持つ人間が存在するのであろうか。結論から言おう。存在していた。それも文明という大きなシステムが張り巡らされた現代においてである。ガイドにとって幸いなことに、同時代を共有し、実にわかりやすい形で、その存在を記録にとどめる男がいた。羽生について検証する前に、その男について確認してみたい。それは大山倍達という空手家である。

大山倍達の獅子博兎

大山倍達(1923-19949)。世界に支部を持つ「極真空手」の創設者だ。誇張されたフィクションが多くを占めるとはいえ、「空手バカ一代(原作:梶原一騎、画:つのだじろう・影丸譲也)」なる実録型の漫画で、その強烈な存在感を世に知らしめた空手家である。

レンガを砕き、自然石を割る拳。コインを曲げる指、ビール瓶を切断する手刀。そのおそるべき肉体と強靱な精神力で、世界を渡り歩いた格闘技界のカリスマだ。自身の空手をケンカ空手と呼び、当時、型の習熟が主流であった空手を空手ダンスとし、相手の身体を直接打撃するという革命を空手界に起こした男でもある。

彼が目指したものは「最強」の二文字。その大山が、己の最強を示すために選んだ相手の一人が、いや、正確には一人ではなく一頭なのだが、なんと、牛だった。それも闘牛である。我々から見れば荒唐無稽。ドンキホーテを上回る奇想天外。大山は牛との闘いを切望する。どんなに周囲から馬鹿にされようともエネルギッシュに突き進む。

前掲の漫画でも紹介されたが、この部分はフィクションではない、現実そのものなのである。そして、1948年、その熱意で、この闘いを実現してしまう。九十九里浜で牛相撲の横綱・雷電号と対峙したのである。人が牛と闘うという起こり得ぬはずのことが、起こってしまったのだ。さらに、我らの目には奇跡としか思えないことが起きる。衆人が見守る中、大山は牛を倒してしまうのである。

正拳は頭蓋を砕き、手刀は角をへし折る。そんな闘いの結末が大山の手によって披瀝されたのである。驚くなかれ、実現しなかったとは言え、大山はライオンとの闘いも想定していたのだ。人間がライオンと闘うための実戦ハウツー本まで出版しているほどだ。さらに、孫弟子ウイリー・ウィリアムスを熊と闘わせ、勝利させてもいる。この超ドンキホーテと言わざるを得ない、その思考のプロセスが下記の書籍に詳しい。


牛さえを倒した大山から発せられたこんな言葉がある。紹介しよう。

「ネコは強いよ。本気になったネコに勝てる人間は、なかなかいないよ」

ライオンとの闘いさえも想定していた男が、ネコをたたえるのである。これぞ、大山の野生を如実に物語る言葉ではないか。つまり、線引きをしないのである。闘いというステージでは、ネコとライオンの両方に共鳴するのが大山なのである。まさしく獅子博兎であろう。その大山を手がかりに、羽生を解明できないものか。ガイドは手探りした。そして、大いなるヒントがあった。それは、大山が目指した最強という領域の一つの具体的な姿としてあったのだ。

大山はまずもって、その目力で敵を圧倒したというのである。睨むだけで相手をひるませる。その相手とは、もちろん人間だけではない。牛もまた、しかりなのである。実際に大山の目力の前に戦意喪失した牛もいたという。目は口ほどに物を言う。ここで羽生に戻そう。

羽生にらみ

大山同様、羽生の目力は、その圧力で対局者を圧倒する。以前の記事(「羽生善治の将棋の凄さ~羽生マジックの真実~」)でも述べたように、升田賞を受賞した強豪、飯島栄治をして「顔を見ないようにして指す」と言わしめたほどの凄まじさである。称して「羽生にらみ」。対局者のみならず、様々なメディアを通して、その目を目撃した将棋ファンも多いだろう。その一人である私が羽生が猛獣であると感じた大きな理由の一つだ。

意識して相手をにらんでいるのではない。集中のあまり、羽生の熱視線が盤と駒を射抜いているのだ。その視線の先に対局者がいる場合も、もちろんある。特に若い頃は、この「にらみ」を常態としていた。以前にも紹介したことが、下記の写真集『棋神』は、その瞬間を如実に著してくれた名作である。この「羽生にらみ」ならば……。

 
この「羽生にらみ」ならば、ウサギに対しても出現したのではないか。そう、アマチュア相手の「指導対局」においても、野生の本能は隠しきれぬ部分があるはずだ。「溜息」や「怒り」は感知しにくいが、ついつい出てしまう「羽生にらみ」ならば、あってもおかしくはない。ガイドはそう考えた。

羽生は著名人である。それは取りも直さず、多くの人の目に触れると言うこと。羽生の指導対局を受けた人、目にした人の数も相当数にのぼるはずだ。ネットも普及した現在。どこかに、それを目撃した人はいないだろうか、それを記録した資料はないだろうか。

もちろん信憑性という面において、さらなる検証が必要となるだろうが、私は、一筋の光を求めて探すことにした。そして、それは、あっさりと見つかったのである。しかも、信憑性において最高レベルであると思われるメディアで。ガイドしていこう。
 

羽生善治の獅子博兎

証言者は大崎善生。『将棋世界』という雑誌の編集長を経験したこともあるノンフィクション作家である。私の大好きな作家の一人だ。大崎が証言しているのは『羽生善治-将棋史を塗り替えた男-』誌上である。

その中に、高校生の羽生について回想している文章がある。お断りしておくが、高校生の羽生はすでにプロ棋士であり、その才能は周知のものとなっていた。舞台は、『将棋マガジン』という雑誌の企画で、大崎自身が担当したものだったそうだ。企画のタイトルは「天才羽生にチャレンジ」、中身はアマチュア相手の指導対局である。それも小学生を含む将棋愛好家達への指導で、その時の羽生の様子が掲載されているのだ。


わかりやすいように引用させていただこう。

驚いたことに当時ハブニラミと恐れられていた、対局者をギョロッと睨み付ける仕草を子供が相手の時にもやるのである。それを見て私は、ああこれは別に相手が憎いとか倒すためにやっているのではなく単なる癖とか思考のリズムの一種なのだと確信した。なぜなら四枚落ちの小学生でも睨むからである。(大崎善生)

いかがであろうか。羽生は、やはりにらんでいたのだ。ガイドにとって大崎の回想は、天啓のものとなった。押しも押されぬプロ棋士である天才・羽生が、アマチュアの小学生相手にも、獅子博兎の本能を隠せずに「にらんで」いたのである。大山倍達が闘牛を前にして放ったものと同種の視線を、棋士・飯島栄治が思わず避けたという視線を、写真家が神と重ねた視線を、あろうことか小学生に放っていたのだ。

まさしく獅子博兎の野獣が盤前に身構えているのである。放たれた側の小学生はどんな受け止め方をしたのかわからぬが、共鳴する羽生を眼前にしたのである。ガイドから言わせればうらやましい限り、幸せそのものである。

断るまでもないこととは思うが、小学生を前にした羽生にらみを「癖や思考のリズム」と分析した大崎の解釈と、「野生の性」であるとするガイドの解釈とは、まったく違うものである。子供の頃からの羽生を長きにわたって観察してきた大崎と、一ファンに過ぎぬ私との間に歴然とした解釈の違いがあることは当然である。

また、その経歴から、分析レベルにおいては、さらなる段差があることも否めない。しかし、「事実などは存在しない。ただ解釈だけが存在する」というニーチェの言葉を信じ、私は主張したい。羽生は猛獣である。獅子博兎を隠しきれぬ、恐るべき猛獣である。

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追記

「敬称に関して」

文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
  1. プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。
  2. アマ棋士の方には敬称をつけさせていただきます。
  3. その他の方々も職業的公人であると考えた場合は敬称を略させていただきます。

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