バレエ一色の学生時代

歳を重ねるごとにレッスン熱も高まり、小学校6年生の頃には月に一度京都の望月則彦バレエスタジオに通っている。高知から飛行機と電車を乗り継ぎ、ひとりホテルに泊まっては稽古に参加した。

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14歳の頃

中学生になるとさらに拍車がかかり、生活は文字通りバレエ漬け。学校が終わると教室に向かい、夜の12時まで連日稽古に明け暮れる日々。
「家族よりバレエの先生と過ごす時間の方が長かったと思う。私のこの性格も、一の宮先生に育ててもらったんじゃないかっていうくらい影響を受けました。望月先生には、バレエ以外の表現もあるんだということを教わった。この両先生がいたから、ここまで来られたんだと思います」

コンクールにもたびたび参加し、中学三年生のときには四国バレエコンクールで第一位に輝いている。四国のバレエ界では名を知られるようになるも、当人はさほど手応えは感じていなかったと話す。
「四国バレエコンクールの後、全国舞踊コンクールに出たら四位(入賞の一位)になって、そのとき初めてびっくりしました。外に出て賞を取れちゃった、自分にそんな実力があったのかと……」

だが、浮かれていたのも束の間のこと。続いて出場したこうべ全国洋舞コンクールでは、決勝には残ったものの賞は何も取れずに終わる。ダンス人生で初めて挫折を味わった瞬間だった。
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15歳の頃

「泣いて、泣いて、“もう学校なんか行かない!”って泣いて。そうしたら親が、“学校に行かないならバレエも辞めなさい!”と言って、本気でバレエを辞めさせられそうになったんです。“辞めたくない!”ってしがみついたり、バレエの先生に学校へ行きなさいと説得されたり、ちょっとした修羅場でしたね(笑)」

当時コンクールで名を馳せていたのは、中村祥子に志賀育恵といった、後の日本クラシック・バレエ界で第一線に立つ顔ぶればかり。
「やっぱりムリでした。彼女たちとは違ってました。わかるんです、勝ち目がないってことが」

何よりバレエが好きで、人一倍稽古に打ち込む一方、どこか冷静に自身を俯瞰で見つめていた。自分が叶わないということを、早くも自覚していたという。
「脚が長くてキレイなひとたちの踊りを見て憧れてはいたけれど、自分がそれを持ってないというのはちゃんとわかってた。でも私としては、舞踊家として勝つ方向に行きたいんです。だから、バレエじゃないところに行ったんだろうなって思います」