わずか16名の少女たちから始まった劇団が、100周年を迎えた奇跡。
様々な困難に遭いながらも新しいものを求め、今に繋いだ軌跡。
そこにいつもあったたくさんの輝石。

宝塚歌劇団100年へのキセキのひとコマをご紹介いたします。
――Part10「宝塚歌劇団 戦争からの復活」――

■宝塚歌劇団100年へのキセキ
Part1「小林一三が目を付けた宝塚村」
Part2「タカラジェンヌの意外な誕生秘話」
Part3「宝塚歌劇 第一回公演はお伽噺」
Part4「宝塚音楽学校の移り変わり」
Part5「宝塚大劇場の変遷」
Part6「東京宝塚劇場の変遷」
Part7「『モン・パリ』~レビューの誕生」
Part8「『パリゼット』~レビュー黄金時代」
Part9「海外公演~世界へ羽ばたくタカラヅカ」
Part10「宝塚歌劇団 戦争からの復活」
Part11「宝塚歌劇団の大運動会」
Part12「『虞美人』~小林一三翁逝く」
Part13「『華麗なる千拍子』~芸術祭賞」


宝塚歌劇からレビューが消える!

宝塚歌劇団100年の歴史の中、一番の苦境はもちろん、第二次世界大戦でしょう。

日本で初めてのレビューを誕生させ、海外での公演も大成功を収めた宝塚歌劇団にまず戦争の影響が出たのは、出し物でした。
『シャンソン・ド・パリ』『マンハッタン・リズム』など欧米風の作品が好まれる中、1937年(昭和12年)頃より『皇國のために』『軍國女學生』などといった軍国色のある作品が少しずつ増え、カタカナ表記の作品は減っていきます。

多くの生徒も退団し、1939年(昭和14年)には星組が一時廃止。
やがて軍部から「レビュー=敵国の文化」とみなされ、レビューの上演は禁止。華やかな衣装は軍服やモンペ姿と変わり、軍国物の作品の上演を強いられたのです。

1940年(昭和15年)には大日本国防婦人会宝塚少女歌劇団分会が発足し、天津乙女を筆頭に、全生徒が入会することとなりました。
そして生徒たちは何組かに分かれ、慰問公演を行います。

多くの劇団が解散していく中、たとえ軍国物であっても、ホームグラウンドで公演が打てていた宝塚歌劇団に大きな事態が訪れます。
1944年(昭和19年)、国民総動員を徹底させるための「決戦非常措置要綱」が施行され、高級劇場が停止されることとなったのです。

「高級劇場とはいかなる劇場を指すのか……?」「入場料が安く、大衆的かつ軍国物を上演している宝塚歌劇は残してくれるだろう」。そんな一縷の望みも切られ、3月1日、宝塚大劇場そして東京宝塚劇場に、停止命令が出されます。

停止命令が出されたのは他に、東京の歌舞伎座、帝劇、明治座、日劇、名古屋の御園座、大阪の歌舞伎座、京都の南座など19の劇場でした。明治座をはじめ6劇場は、閉鎖がすぐに解除となりましたが、宝塚大劇場、東京宝塚劇場は、ここから長い苦難の道を歩むこととなります。