「いい母にならなくては」と頑張りすぎていませんか?
「いいお母さん」が子どもを追い込んでしまうこともある
たとえば、やりたいことも我慢して、自己犠牲の精神で子どもに尽くしすぎるお母さん。自分自身はおしゃれ一つせずに家計を切り詰めて、子どもには習い事三昧。家庭での会話は、学校のこと、勉強のこと、しつけのことなど、子どもを「いい子」にするための話ばかり――。こうしたお母さんは、世間では「子育て熱心ないいお母さん」と言われますが、子ども本人にとってはどうでしょう?
お母さんが「いい母」になろうとすると、子どもにも「いい子」になってほしいと期待をかけるようになります。その期待を受けた子は、「お母さんが望む子」になろうと精一杯努力をします。勉強が得意な子は、一生懸命勉強して100点を目指すでしょうし、運動が得意な子は、一等賞を取るために練習に励むでしょう。勉強にも運動にも自信がない子は、きょうだいの面倒を見たり、家事を率先して手伝ったりして「お母さんの役に立つ子」になろうと努力をするでしょう。
そうした努力が、自分のやりたいこととマッチしていればいいのですが、親の期待に応えることが主目的になってしまうと、「自分は本当は何をしたいのか」「どうなりたいのか」という、内発的な動機が分からなくなってしまうのです。
その結果、頑張りすぎて燃えつきたり、お母さんの目をいつも気にして、情緒が不安定になってしまう子もいます。お母さんが敷いたレールを歩んできたものの、進路にも環境にもなじめず、無気力になっていく子もいますし、思春期になると過剰に反発し、親がいちばん嫌がる(さりとて、自分自身も本当に望んでいるわけではない)生き方を志向していく子もいます。
子どものために「いい母」になろうと努力してきたのに、逆にそれが子どもの道を阻んでしまう――こうした悲劇を起こす前に、なぜ「いい母にならなくては」と頑張りすぎてしまうのか、という自分自身の問題と向き合う必要がありそうです。
母親の中にも色々な「自分の顔」がある
「理想的な顔」だけでなく「ダメな顔」もあるのが、等身大の「自分」
ところが、「いい母にならなくては」と頑張りすぎるお母さんは、自分の中にある「いい顔」だけを認め、自分や周囲にネガティブな印象を与える顔を認めることができません。望ましくない顔は、「あってはならないこと」なのです。そのため、「いい顔」だけを発揮できるように、努力を続けていきますし、家族にもそれを要求するようになります。
そうした努力や要求を、家族はとても息苦しく感じてしまうものです。夫は、外に「はけ口」を求めて逃げ出すこともできますが、子どもには逃げ場がありません。四六時中「いい母」と付き合い、その期待に添うように努力しなければ、家庭の中で生きてはいけない――そうしたプレッシャーに押されて生活していくと、自分が何をしたいのか、どう生きたいのかも分からずに、生き抜くために「母親の望む自分になろう」と、頑張り続けてしまうものです。