ドイツ語の歴史 そもそもドイツ語の源って?
「ドイツ語圏」は初めより中欧に位置します
この「ゲルマン語」からの「ドイツ語」の誕生には、4世紀に始まるゲルマン民族大移動、843年の東フランク王国の成立が歴史的に重要な出来事となります。つまりこれにより今日で言う「ドイツ語圏」を構成することになる部族の国家的まとまりが生じたのです。ただしその言語は統一性をもったものではなく、特に再び生じた(第二次)子音推移により、これを経験した中南部の高地ドイツ語(Hochdeutsch)と、影響を受けなかった北部の低地ドイツ語(Niederdeutsch)との間に、今日までも続くことになる方言の相違が生まれることになりました。
高地ドイツ語の発展
この第二次子音推移を経験したドイツ語を、古高ドイツ語(Althochdeutsch)と呼びます。これは古期高地ドイツ語という意味で、さらにこの発展形は中高ドイツ語(Mittelhochdeutsch)、新高ドイツ語(Neuhochdeutsch)と称されます。古高ドイツ語は文書としての記録を持つ最古のドイツ語で、時期としては7世紀から11世紀初め。特徴としては上述の第二次子音推移を経ていること(ゲルマン語で「リンゴ(Apfel)」にあたるapplaがapfulになる等)、ウムラウトが見られること(例えば「客」が単数形gast、複数形gesti。今日のGast/Gästeに相当)等。また冠詞や、助動詞による完了・受動形が発展したのもこの時代です。
これに続く中高ドイツ語は11~14世紀半ば、中世期のドイツ語。古高ドイツ語の文献がほぼ教会・修道院のものであるのに対し、中高ドイツ語には騎士・宮廷詩人による文学作品が登場し、複合文を用いた詩的表現の発展を見ることができます。英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』もこの期の作品です。また従来ラテン語で記されていた公文書も、教会関係を除きドイツ語が徐々に並行して用いられるようになります。
標準ドイツ語の成立へ
その後は現代の分類では17世紀半ばまでが初期新高ドイツ語、続いてほぼ現代ドイツ語の形を成す新高ドイツ語時代となるわけですが、これは人々にとって「規範」となりうるドイツ語がようやく形を成してゆく過程でもあります。つまりフランス、イギリスにおけるパリやロンドンのような政治的・文化的中心を持たなかったドイツ語圏では、言語に関しても各方言が分立した状況で、統一された正書法もなく、いわゆる「標準ドイツ語」と認められるものがなかったのです。また特に学術分野での著述は、概念の未熟から教養人の言語としてのラテン語やフランス語で行われざるを得ない状況が18世紀までも続きました。ドイツ語の歴史とは、民族意識の高揚と共にそのような状況から脱却し、自らの言語が参照すべき規範を結実させてゆく発展過程とも言えるでしょう。マルティン・ルター(1483-1546)
このルター聖書以後も、文学者や知識人による文書は印刷された形で流通し、特に書き言葉として範とすべきドイツ語の形成に参照されてゆくことになります。その他、標準ドイツ語形成のための主な活動として、さらに以下のものが挙げられます。
- 文法:1578年に最古のドイツ語文法書である『ドイツ語文法』がラテン語で出版され、以後も規範文法の確立のため様々な文法書が公刊されてゆきます。
- 辞書:語彙の整備のため17世紀よりドイツ語によるドイツ語辞典の編纂も開始されます。今日代表的なDudenのシリーズもこの流れを汲むものです。
- 舞台:方言による隔たりが特に大きい発音に関しては、19世紀より劇場での「舞台ドイツ語(Bühnendeutsch)」が範とされる伝統が生じました。今日ではテレビやラジオでのアナウンサーの発音が専ら参照されます。
- 教育:かつては教会主導であった規範的ドイツ語の形成は国家に引き継がれ、学校教育等を通じて広められてゆくことに。また17世紀の「結実協会」のような、ドイツ語の洗練を目指す言語協会も設立されました。
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