アメリカでプロダンサーに
大学を二年で中退し、親元を離れ単身渡米。当時19歳。ひとり暮らしも初めてなら、海外生活も初めて。三歳でバレエを始め、以来バレエ三昧の日々を過ごしてきた。家事はおろか、世間一般の常識すらわからない。「もう何をしたらいいやら、生きていくのが大変という状態でした(笑)。夜になっても電気やガスはつかないし、真っ暗で呆然。お金を払っていなかったんだから、当たり前ですよね。ポットを押せばお湯が出てくると思ったら大間違いで、ホントにイチからのスタートでした」
アメリカで始まった、プロダンサーとしてのキャリア。サンノゼバレエ団
リハーサル中の米沢さん
「入って間もなく『くるみ割り人形』の主役・クララ役をいただいて。すごく必死でしたね。家で繰り返しビデオを見て何とか振りを覚えていくと、“唯は覚えるのが早いから”って違う役まで与えられて、もう頭がパンパン(笑)。苦労して覚えてるのに全然わかってもらえなくて、“いけるよね?”“いけません!”なんてやりとりをしてました(笑)」
役にも恵まれ、プロとして順調に経験を重ねるも、米沢さんの中には大きな葛藤が芽生え始めていた。それは、プロのダンサーという職業に対する理想と現実のギャップ。物心ついてからバレリーナを目指してきたが、このとき生まれて初めて疑問を抱く。
「それまでずっと、バレエのために生き、バレエのために寝て、バレエのために食べ……と、バレエのことばかり考えて過ごしてきました。だけど、アメリカの人たちは違っていて、彼らはもうちょっとドライなんですよね。リハーサルが終わるとパッと帰るし、仕事以外ではバレエのことなんて考えもしない感じというか」
団員たちにとって、バレエはあくまでも仕事であり、生活の糧。プロとして給与をもらっている以上、踊るべきときは踊る。しかし、プライベートとバレエはきちんと一線を引く。それはダンサーという職業が成り立ちにくい日本と、成立しているアメリカとの意識のギャップでもあるのかもしれない。
「その割り切り方が私にはわからなくて、なんだかちょっと苦しかったんです。バレエをやってていいんだろうか、自分はバレエダンサーに向いてるんだろうかって、初めて思った瞬間でした。ただ“好き”という気持ちでバレエをやってたけど、それだけではやっていけない気がして。プロとして踊るのがこういうことならば、私は趣味でバレエをやった方がいいのかもしれない。バレエを辞めようか、大学に行って趣味で踊った方がいいのではと……」
2010年、4年間在籍したサンノゼバレエ団を退団。日本への帰国を決意する。
「ちょっとバレエから遠ざかろうと考えたのと、父が亡くなったということもあって、とにかくいったん帰ろうと思ったんです。日本でオーディションを受けて、もし受からなかったら大学に行こうと。ちょっと賭けみたいな気持ちでした」