20世紀をゲイとして生きたフランシス
1909年に生まれ、1992年に亡くなったベーコンは、よく「20世紀をまるごと生きた」と称されますが、それは「20世紀をまるごとゲイとして生きた」ということでもありました。20世紀ほど、ゲイを取り巻く環境が大きく変化した時代はありません。ナチスの時代には多くの同性愛者がガス室送りにされました(『BENT』という映画にも描かれています)。戦後、60年代から欧米でゲイ解放運動が急速に進み、2000年には同性婚が実現しました。フランシスにとって、ゲイとして生きるということはどういうことだったのでしょうか。「ベーコン展」で配布されていた解説にも書かれていますが、英国では1967年まで同性間の性交渉は違法でした。これは形だけの法律というわけではなく、たとえばオスカー・ワイルドは1895年に、アラン・チューリングは1952年に逮捕され、それがもとで非業の死を遂げています。ゲイの青年・フランシスもそのことは知っていたはずです。
マーティン・ハリソンは「彼は子どもの頃からゲイだと知っていたし、それを隠そうとしなかった。が、それを苦難だと認め、耐えなければいけない何かだとも感じていた」と語っています。ベーコンも「神なき時代」という言い方をしていますが、彼の初期の作品には、大戦の悲惨さ・不条理だけでなく、同性愛者がキリスト教社会で「異端者」として迫害されてきた(また、第二次大戦ではナチスに虐殺された)ことへの憤りが表現されていたと思います。
映画『愛の悪魔』を見ると、60年代のロンドンでは、ゲイのほとんどは決してセクシュアリティのことは表沙汰にせず(女性と偽装結婚したりして)、たまにサウナで発散してやり過ごしていたことが窺えます(ジョージ・ダイアーもその一人でした。仲間たちがジョージに「あんなやつらとつきあうんじゃない。こっちに戻れ」と忠告するシーンがあります)。そんななか、フランシスは堂々と(勇敢に)恋人をつくり、連れ立って街に出かけ、ゲイとして生きたのです。
『愛の悪魔』では、フランシス(やその友人達)が酒場で皮肉と毒舌たっぷりのオネエ言葉で騒ぐシーンが描かれています。それを見て一抹の不快感を覚える人も、もしかしたらいるかもしれません。しかし、逮捕されてもおかしくない、ひどい差別と抑圧の時代に肩肘張って生きたゲイたちにとって、それは自己を解放するための貴重な時間だったのです。
マーティン・ハリソンはこう書いています。「彼はいかがわしさを愛していたにも関わらず、たいへん礼儀正しかった。泥酔した時でさえ、紳士的な物腰を崩さなかったし、高級さと低俗さの両方を気軽に楽しんでいた」。この言葉が、彼なりのゲイプライド(気高さ)を雄弁に物語っていると思います。
1975年までにフランシスは何度もパリに通うようになり、マレ地区(ゲイタウンとして有名な所)にアトリエを構えましたが、そこでオーストラリアの歴史家エディ・バターシュとラインハルト・ハッセルトというゲイカップルと知り合い、二人はフランシスのよき友人となりました。バターシュは「フランシスは理想のパートナーをずっと探し求めていた。『私の理想はフットボール選手のような肉体で、ニーチェのような精神を持った男だ』ってね。彼は自分より精神的にも肉体的にも強くて、彼を完全に服従させるご主人様を欲していたんだ」と語っています。
しかしフランシスは、とうとうそんな男とは出会えませんでした。「フランシスはただ肉体的に服従できるような関係を求めていた。でもいつも彼は、心理的には相手を支配していたんだ」「彼は真実の愛などというものの存在は信じていなかった。ただ性欲があるだけだ。フランシスにとっては、二人の人間が毎日いっしょにいて、愛に満ちた、おたがいのために喜んで自分を捧げるような永続的な関係を築けるなんて、信じられなかったんだ」
もし、フランシスがあと30年遅く生まれていたら、「真実の愛」を信じ、愛に満ちた永続的な関係を築けたかもしれません……が、それは歴史上の「if」に過ぎません。ただ、時代の制約をものともせず、自らの内なる声に従って恋多き人生を全うしたその生き様には、やはり感銘を禁じえないのです。