わずか16名の少女たちから始まった劇団が、100周年を迎えた奇跡……。
様々な困難に遭いながらも新しいものを求め、今に繋いだ軌跡……。
そこにいつもあったたくさんの輝石……。
宝塚歌劇団100年へのキセキのひとコマをご紹介いたします。
――Part7「『モン・パリ』~レビューの誕生」――
■宝塚歌劇団100年へのキセキ
Part1「小林一三が目を付けた宝塚村」
Part2「タカラジェンヌの意外な誕生秘話」
Part3「宝塚歌劇 第一回公演はお伽噺」
Part4「宝塚音楽学校の移り変わり」
Part5「宝塚大劇場の変遷」
Part6「東京宝塚劇場の変遷」
Part7「『モン・パリ』~レビューの誕生」
Part8「『パリゼット』~レビュー黄金時代」
Part9「海外公演~世界へ羽ばたくタカラヅカ」
Part10「宝塚歌劇団 戦争からの復活」
Part11「宝塚歌劇団の大運動会」
Part12「『虞美人』~小林一三翁逝く」
Part13「『華麗なる千拍子』~芸術祭賞」
1924年(大正13年)7月19日、4000名の観客を収容できる宝塚大劇場が完成しました。しかし上演される作品は、ほとんどが日本物や舞踊劇。大劇場にマッチした作品ではありませんでした。
そこで創設者・小林一三翁は、大劇場にふさわしい作品、新しい舞台技術を学ぶための欧米への海外視察を、演出家・岸田辰彌に依頼します。
画家・岸田劉生を兄に持つ岸田辰彌は、浅草オペラで活躍したオペラ歌手でした。宝塚に移ってからは斬新な作品で話題を呼び、宝塚音楽学校のバレエの指導者でもありました。
一年半の海外視察から戻った岸田辰彌は、自身の渡航体験をストーリーに盛り込んだ作品を制作します。しかし、音楽、ダンス、照明、衣装、装置などすべてがこれまでにない大掛かりなもののため、これ一本の製作費は一年分に相当。よって反対意見も多く出されましたが、そこはビジネスの神様、小林一三翁。「よいものならやれ」というの鶴の一声、決断の早さで、日本で初のレビューが誕生することとなりました。
それが『モン・パリ』~吾が巴里よ~。初日は1927年(昭和2年)9月1日。初演は花組で、翌月に雪組、翌年に月組と、全組で上演されました。
幕なし16場。登場人物210人。上演時間1時間30分。それは当時の日本の演劇界の常識を覆すものでした。エジプトやインド、パリなどを舞台に繰り広げられる場面がスピーディーに転換し、観客を飽きさせない演出方法は観る者を圧倒。フィナーレには、16段の大階段(*1)が登場しました。
中でも、ズボンを履いた24名のタカラジェンヌが足を揃えて踊る「汽車の踊り」が大評判。これが、宝塚名物・ラインダンス(*2)の始まり。
振り付けは、白井鐵造が担当しました。