1ページ目 【なぜ書かれた『昭和天皇独白録』、その背景】
2ページ目 【近衛文磨による昭和天皇退位工作とその挫折】
3ページ目 【おもわぬ身内の「反乱」、そして昭和天皇の「第2の聖断」】

【近衛文磨による昭和天皇退位工作とその挫折】

明治天皇を目標にした昭和天皇

昭和天皇は、幼いころから聡明さを発揮したといい、それを示すエピソードには事欠きません。このことは、病弱だった大正天皇に対する不安を払拭する大きな材料でした。

昭和天皇は、その目標を、病弱な父ではなく、祖父・明治天皇におくことになります。明治天皇と昭和天皇は、若くして天皇になったという共通点もありました。

つまり、明治天皇は元服も済ませていない15歳で即位。昭和天皇の即位は25歳ですが、父大正天皇の病気によって、20歳で摂政として、実質的に国政の頂点にありました。余計に、明治天皇への思いは深かったことでしょう。

若くして即位し、近代日本を創り上げた明治「大帝」が、昭和天皇の目標であったことはいうまでもありません。

明治天皇になれなかった昭和天皇の運命

しかし、明治天皇と昭和天皇をとりまく環境は、あまりに違っていました。

明治天皇には、初期には大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛・岩倉具視ら強力な政治家が、後期には政府に伊藤博文、軍部に山県有朋が君臨し、それぞれ明治天皇を支えていました。

明治天皇は、彼らに絶大な信任を与えることが、政治の安定と日本の成長につながることを、理解するようになりました。日清・日露の両戦争での勝利は政府と軍部が一丸となって戦った結果でした。

しかし、昭和天皇の周りには、そのようなブレーンはいませんでした。宮中も、政党も、軍部でさえも権力争いにまみれ、最後の元老・西園寺公望はあまりに年老いていました。

この勢力を一気にまとめることのできたのは、近衛文麿だけでした。しかし彼は優柔不断で、軽率なところもあり、そして何よりも、困難になると政権を投げ出すところがありました。昭和天皇は、そんな近衛にあまり信頼がおけなくなったようです。

昭和天皇は常に孤独に決断しなければなりませんでした。木戸幸一(最後の内大臣)のようによく補佐してくれる宮中の人物はいました。しかし、明治天皇においての伊藤・山県のように権力がありしかも大局観のある人物に出会うことは、できなかったのです。

近衛の「昭和天皇退位論」

さて、終戦で東久邇宮稔彦王が首相就任。近衛は副首相格として政権に返り咲きます。

東久邇宮政権は10月に崩壊しますが、近衛は活発でした。このころから、マスコミに「昭和天皇退位の可能性」が取りざたされるようになります。

そして近衛は、記者たちにその可能性を匂わせはじめます。AP通信のラッセル・ブラインズ記者には、「日本の皇室典範には退位の規定がない」と語りました。これは暗に、皇室典範の改正と天皇退位を示唆するものでした。

さらに近衛は「国民投票による天皇制維持」を模索もしていました。彼の構想の中では、当然、そのとき天皇となるべき人物は昭和天皇ではなく、11歳の皇太子明仁親王(現天皇陛下)であり、そして高松宮が摂政になる、という目論見であったのだと思われます。

近衛計画の挫折、そして近衛の死

しかし、GHQはこの動きを当然こころよく思っていません。特に、昭和天皇との会見を果たしてその人物性を見極め(たつもり)、そして昭和天皇の命令で占領政策が滞りなく進むさまをみた、最高司令官マッカーサーは、この動きを封じにかかります。

詳細は今もって不明なところも多いのですが、とにかく、12月、近衛に対する戦犯容疑での逮捕状発令。近衛は、薬物自殺します。

マッカーサーにとって、昭和天皇の存在は占領政策にとって(もちろん、アメリカにとって都合のいい政策ですが)欠かせない存在でした。マッカーサーには、近衛を「抹殺して」でも、昭和天皇を存置しておく必要があったのかもしれません。

しかし、「昭和天皇退位論」は、止まりませんでした。それは、予想もしないところから、火ぶたがあがったのでした。

◎宮中の「孤独な天皇」と退位を狙う近衛たち(写真は皇居)


(写真提供:東京初フリー写真素材集)