(2005.08.12)

1945年の敗戦を迎えるにあたって、昭和天皇のまわりではさまざまなことが起きていました。その1つが、意外に知られていない「昭和天皇退位工作」です。その動きを中心に、昭和天皇と終戦を見ていきたいと思います。

1ページ目 【なぜ書かれた『昭和天皇独白録』、その背景】
2ページ目 【近衛文磨による昭和天皇退位工作とその挫折】
3ページ目 【おもわぬ身内の「反乱」、そして昭和天皇の「第2の聖断」】

【なぜ書かれた『昭和天皇独白録』、その背景】

『昭和天皇独白録』の史料的価値

1990年、元宮内省御用掛・寺崎英成の遺族のもとに、終戦直後に書かれた昭和天皇の「独白録」が残っていることが判明します。大きな反響を呼びました。ご記憶の方も多いでしょう。

当時、学生だった私は、基礎ゼミ担当のA先生(政治学の世界では非常に有名な方ですが)から、こんなことを聞かされました。

「独白録とか、回顧録というのは、史料として1級とはいえません。後から書かれたものだから、どうしても正確さに欠くし、無意識でも弁明が入ってしまう。1級品の史料とは、日記をおいてほかにはありません」

むろん、一流の教養人であった昭和天皇の日記が存在しないわけはありません。しかし、宮内庁は、それを公にする意向は、まったくないようです。

『昭和天皇独白録』はなぜ書かれたか

しかし、史料としてはあまり使えないものとしても、これがなぜ書かれたのか、そのことを知っておく必要は十分にあるでしょう。

アメリカは、「天皇制存続、昭和天皇の皇位も存続」という方針で日本占領を行おうとしていました。そのほうがやりやすいと考えたからです。

しかし、ソ連やイギリスなどは天皇の「戦争責任」追及を主張。これをアメリカはかわす必要がありました(→拙稿「日本国憲法は「押し付け」か?もご参照ください)。

そのため、GHQと寺崎が接触。そして『独白録』が書かれ、そしてそれは英訳され、GHQの「天皇無責任」の材料として使われました。こうして昭和天皇は訴追を免れ、天皇制は存続しました。

『独白録』には昭和天皇の率直な気持ち、発言が多く記録され、興味深いのですが、これが書かれた背景として、このようなことがあったことは見過ごせません。

そもそも「戦争責任」とは?

そして、今なお、昭和天皇の「戦争責任」を問う声は強く、また、それに反対する声も負けず、論争が続いているところです。

しかし、そもそも「戦争責任」とはいったい何なのか。開戦責任なのか、終戦をサボタージュした責任なのか。開戦=責任が発生するなら、ポーランド侵攻したドイツに対し宣戦布告した英仏にも責任が発生する、ともいえなくはありません。

「戦争責任」という言葉は、その意味じたいがあまり議論されないまま、昭和天皇の責任の有無のみが議論されているようなところがあるように思えてなりません。

アメリカにとっての「戦争責任」

しかし、日本を当時占領統治していたアメリカにとって、「戦争責任」の意味は明確でした。

つまり、「誰を処罰すれば、アメリカ人はじめ、連合国の多くが納得するか。その処罰の対象者が負うのが、『戦争責任』なのだ。」

もちろん、日本統治方針の前提として、天皇に戦争責任を負わせてはならない。いかに天皇の責任を回避し、他の者に責任を「かぶせる」かが大きな課題となったわけです。

こうして、アメリカによって東条英機や近衛文麿らが天皇に戦争を「そそのかした」という「伝説」が作られ、近衛は自殺、東条らは東京裁判で絞首刑に処せられたのでした。

近衛文麿の「戦争責任」観

さて、戦争責任という言葉は、何も戦後生まれたものではありません。

近衛文麿──開戦直前の日米交渉を途中で投げ出した首相ですが──は、1944年の段階で、後の首相となる東久邇宮稔彦王に、「『世界の憎まれ者』になっている東条英機に全責任を負わせるのがいい」と語っています。

近衛もまた、天皇への責任追及回避のため、「他の者に責任をかぶせる」ことを考えていたのでした。もっとも、自らが首相のとき、アメリカが猛反発し、日米関係悪化を決定的にした「フランス領インドシナ南部への進駐」を、陸軍にいわれるまま実行した「責任」は、自覚していないようですが。

とにかく、近衛は動き出します。1945年になると、昭和天皇に早期終戦を求め(「近衛上奏」)、ソ連を仲介とした終戦工作の責任者になります。

しかし一方で、彼は京都で岡田啓介(2・26事件の際の首相)、米内光政(元首相、当時海軍大臣)、ある寺院の門跡家と協議、「昭和天皇退位、裕仁法皇という称号で出家のうえ蟄居」という計画を図っていました。

近衛文麿と高松宮宣仁親王

そして原爆投下、ソ連参戦。八方ふさがりの中、昭和天皇の「聖断」によって終戦となりました。

当初、終戦の条件となる連合国によるポツダム宣言受諾について、政府は陸軍の主張を入れていくつかの条件をいれる、ということにしていました。

しかし、近衛は、昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王と結び、「国体護持(天皇制維持)」だけを条件にすることを宮中と政府に迫りました。こうして日本はほぼ無条件での降伏、となったのです。

近衛と高松宮は東条らを頂点とする陸軍に批判的な態度をとっていました(反東条派には同情的)。このことが、後にひとつの「事件」の背景になっていきます。

◎極秘のうちに進められた「天皇出家計画」
※写真はイメージです。この事件との関係はありません。


(写真提供:デジタル楽しみ村 http://www.tanoshimimura.com/)