2ページ目 【ニクソン外交の「平和主義」と「現実主義」】
3ページ目 【ウォーターゲート事件と「帝王大統領制」の崩壊】
【ウォーターゲート事件と「帝王大統領制」の崩壊】
ウォーターゲート事件の始まり
1972年6月17日、5人の男が、ウォーターゲート・ビルの中にある民主党全国委員会本部に不法侵入したとして逮捕されました(いわゆる「鉛管工」グループ)。これが、ウォーターゲート事件の始まりです。当初、これは単なる「間抜けなこそ泥」事件として処理されようとしていました。このとき進行していた大統領選はニクソンの圧倒的な優勢状況が続いていて、政治的な思惑がからんだ事件とは思われなかったからです。
しかし、ワシントン・ポスト紙の若手記者、ウッドワードとバーンスタインは、取材を続けていくうちに、これが単なる不法侵入ではない、と感じ始めます。背後に巨大な影=ホワイトハウスがあることを、彼らは察知するのです。
そして彼らは、大統領の側近たちで作られた「大統領再選委員会(CRP)」の指揮のもと、多くの民主党に対する選挙妨害、工作活動が行われていたことを突き止め、報じることになるのです。
「無関心」から、やがて追求へ
しかし、ワシントン・ポストの記事は、「捏造」と一蹴され、同紙は大きな危機に直面します。具体的根拠の欠けた記事の信頼性は薄いと評価されたのです。もっとも、「強固な権力」に守られたホワイトハウスから具体的根拠を引き出すこと自体、困難極まりなかったのですが。
ウッドワードとバーンスタインは譲りませんでした。彼らは「ディープスロート※」とよばれる政府高官はじめ、多くの政府内情報筋から信頼できる情報を集めに集め、形勢を逆転させます。
そして、世論、さらに連邦議会の関心は、次第に、ホワイトハウス対ワシントンポストという野次馬的興味から、この事件にどこまでの上の連中……すなわち大統領までが関わっていたのか、に興味を示し始めます。
1973年、議会は事件の解明に動き出します。そして司法省も、コックス教授を特別検察官に任命、捜査を開始することになるのです。
※先だって、、「ディープスロート」が当時のFBI副長官だったフェルトであったことが判明しました。「大統領でさえも恐れた男」FBI長官・フーバーの死(1972)によって、いよいよFBIの独立性が侵される……そんな懸念が、フェルトを駆り立てたのでしょうか。
対応を誤った「帝王」ニクソン
ここで、ニクソンは2つの失策を行います。1つは、「盗聴テープ」をめぐる攻防です。ニクソンは、ホワイトハウスの隅々に、録音機能つきの盗聴器を設置していました(本人は「歴史のため」といっています)。
この盗聴テープに、事件の核心が記録されていることは明白なわけで、裁判所や議会、特別検察官などは、提出を要求します。しかし、ホワイトハウスは、理解不能な理由でこれを拒み、さらには、提出したものの肝心のところだけ欠落したまま提出するなどして、議会や国民の不信を大きく買ってしまいます。
そして、コックス特別検察官の解任をめぐる「土曜夜の大虐殺」を繰り広げてしまったことも、大きな失策でした。
操作のやり方に業を煮やした大統領は、特別検察官コックスの解任を決意します。しかし、直接任命権のある司法長官・リチャードソンはこれに反対して辞任します。そして、代わりにコックス解任を命令されたラッケルズハウス次官もこれを拒否して解任されます。
結局、ボークが次官代行に任命され、コックス解任を行います。実にこの一晩で、政府高官3人が「帝王」によって「虐殺」されてしまったわけです。
これは、さらに大きな不審を議会と国民に植え付けます。身内の共和党の主流派議員でさえ、「もはや弾劾はさけられない」といい始めるようになるのでした。
そして、「史上初の辞任した大統領」へ
その後も、大統領の「脱税」問題、副大統領の交代、もみ消し疑惑、テープ提出によって明らかになったホワイトハウス内での「口汚い言葉」……これらが、ニクソンをどんどん追い詰めていきます。
そして1974年7月末、議会下院はニクソン弾劾訴追を決定。これをうけて、万事休すと考えたのか、ニクソンは、とうとう辞任を決意します。8月8日、ニクソンは辞任を正式に発表したのでした。
ニクソンはなぜ辞めたのでしょうか。やはり、ニクソンは事件に関わっていたのでしょうか。それは、わかりません。
いえることだけをあげておきましょう。
1つには、彼によって抜擢された副大統領のフォードによる「特赦」の希望がありました。弾劾でなく、大統領辞任なら、それも容認するという共和党主流派の動きもありました。実際、彼は恩赦を受け、責任を追及されることも、真実を語ることも強制されない権利を得たわけです。
しかし、ニクソンは、「アメリカのために辞めた」と、自叙伝で述べています。事件をめぐる2年間、多難な国際情勢のなか、アメリカが弾劾でもめていることへの危機感があった。それゆえに、「ファイターとして最後まで闘う」信念を、曲げざるを得なかったのだと。
実際のところはどうなのでしょう。もう、誰にもわからないのかもしれませんが……。
ニクソンが目標にした「19世紀の安定」
ニクソンの興亡は、何を意味しているのでしょう。ニクソンは、19世紀イギリスの大政治家、ディズレイリをお手本にしていた、といわれています。大英帝国の繁栄を築き、「パックス・ブリタニカ(大英帝国の平和)」をもたらしたのが、保守党をリードしたディズレイリでした。
ディズレイリは、巧みな外交戦術でロシアの黒海以南への南下政策を食い止め、インドとイギリスの連絡を密にし、イギリス帝国主義を完成させるため、エジプトのスエズ運河株の大半を買収します。
「戦わずして勝つ」このディズレイリの老獪(ろうかい)な外交手法が、ニクソンに大きな影響を与えたのでしょうか。
一方、ニクソンは、同時期に活躍したドイツの宰相ビスマルクも、高く評価していたのではないでしょうか。
それを示す直接の根拠はありませんが、ビスマルクもまた、老練な外交で各国の勢力均衡を守り、ドイツとヨーロッパに安定をもたらしました。彼の現実的、かつ平和を求める外交政策もまた、ニクソンと似ているところがあります。
ニクソンは現実的だったのか、それとも時代遅れだったのか?
しかし、時代は20世紀の後半でした。ディズレイリのような、自国の利益のみを追求して、インドやエジプトの人々の権利を無視するような政治家は、もはや望まれていませんでした。同様に、ビスマルクのように、平和を求めながら、国内では社会主義者を大いに弾圧するような、非民主的な政治家も、もちろん求められていませんでした。
ニクソンは、そういった意味で、最後の19世紀的政治家であり、彼の退場は、ある意味必然だったのかもしれません。
アメリカは、彼の辞任後も「混乱の70年代」を迎えます。これが収まったのは、ソ連を「悪の帝国」と言い切り、善悪で外交を語る、ロナルド・レーガンが大統領に就任した1981年以降だったのでした。
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