三村仁司氏、ドイツ・アディダス本社へ
念願のアディダス本社を訪れた三村氏 |
とにかく広い。緑いっぱい。環境は抜群だ |
旧本社棟(右)や話題になったこともある大ポスター |
三村氏は昨年2009年永年勤務していたアシックスを定年退職、今年2010年1月アディダス・ジャパンと契約を結んで話題になった。今回の訪問はグローバルアディダスの最大、最高の開発拠点が置かれる本社の開発・技術施設を訪問し、開発・技術チームとの交流を目的としていた。アディダスの三村として、本格活動を開始するための重要な一歩だった。
同じ年に生まれたアディダス
アディダスの創始者となるアドルフ・ダスラーが、まだ十代のときに考案したスパイクシューズとサッカーシューズは、娯楽に飢えていたドイツのスポーツプレーヤーに大歓迎を受けた。ワーグナーの歌劇の舞台ともなった職人の街ニュルンベルグから車を30分ほども飛ばせば、いかにもドイツ的にだだっ広いジャガイモ畑が広がる。その畑の行き詰まりに黒い森が水平線を作る田園地帯ヘルツォーゲンアウラッハから、兄ホルストと共にダスラー兄弟社は世界に向かって踏み出すことになる。しかし、その後ダスラー兄弟は不幸にしてたもとを分かつことになる。1948年、販売に長けた兄ホルスト・ダスラーは「プーマ」を、製造開発を担当していた弟アドルフ・ダスラーは「アディダス」を創設した。
1948年という年は、日本のスポーツシューズにとってもある意味を持っている。この年は三村氏が誕生した年である。そしてその翌年には、後に彼が入社する鬼塚株式会社(アシックスの前身)が当時31歳の故鬼塚喜八郎氏によって設立されている。
スポーツを愛し、スポーツシューズ造りにドイツと日本それぞれで傾けた二人の情熱を、すべて引き受けることになろうという人間が産声を上げた、今にして思えば運命的なものを感じさせる年だったのだ。
伝記は、アドルフ・ダスラーも鬼塚喜一郎も決して手を抜かず、選手にとって最高のシューズを作ることを心情としたことを伝えている。その精神は三村仁司にも骨の髄から染みこんでいる。三村にすればアディダスの技術開発の現場だけではなく、スタッフの精神まで見ておきたいという気持ちがあった。