釈迦物語2 悟り
釈迦はこの菩提樹の下で悟りを開き、ブッダとなった。多くの場合ブッダとは釈迦ひとりを指すが、悟りを開いた別の人物をブッダと紹介することもある
釈迦は修行していたプラーグボディ山(前正覚山:ぜんしょうがくさん)を下りるとナイランジャナー川(尼連禅河:にれんぜんが)で身を清め、村にいたスジャータという娘に乳の粥をもらって体を癒やすと、菩提樹の下に座って瞑想に入る。
瞑想の間、あらゆる誘惑・煩悩が襲い、あらゆる苦しみ・悲しみが心に浮かんだが、49日後の12月8日早朝、明けの明星輝くその下で、ついに釈迦は悟りを開く。
こうして釈迦はサンスクリット語で「目覚めた人」を示すブッダとなり、菩提樹のあるその場所は、ブッダが悟りを開いた場所=ブッダガヤと呼ばれるようになる。
この辺りのエピソードを手軽に知りたい人は、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』や手塚治虫の『ブッダ』を読んでみてはいかがだろうか。
ブッダガヤの街を歩こう!
ブッダガヤにある日本寺。世界各国の寺がブッダガヤに集まっているので、旅行好きなら街を歩いているだけで楽しくなる ©牧哲雄
こちらはブータン寺 ©牧哲雄
たとえばチベット仏教の聖地ラサやネパール仏教の聖地カトマンズ、ブッダガヤの近くにあるヒンドゥー教最大の聖地ベナレス(バラナシ)を訪れると、そこが聖地だということを強烈に感じさせるエネルギーがある。ところがブッダガヤを訪れても、マハーボディ(大菩提寺)を訪れない限り、あまりパワーを感じない。
というのも、ブッダガヤであってもそこに暮らす住民のほとんどがヒンドゥー教徒だという点がひとつ。もうひとつは、ラサやベナレスを訪れる人々が「生涯一度の巡礼」「死ぬための巡礼」などと命がけの使命を帯びているのに対して、仏教史跡を訪れる人の大半は観光客で、その切実さがまったく異なるからだろう。
なかにはこんなお寺も ©牧哲雄
ふらふら散歩していると、水牛が歩いているような村にいきなりタイやラオスで見た派手な寺院が現れる。なんで? そうかと思うと今度は日本風の落ち着いたお寺。ミャンマーで見たストゥーパみたいなものもある。そういえばマハーボディだってヒンドゥー教寺院に多いシカラと呼ばれるトウモロコシみたいな造りになっている。