夫の告白
まだわずか十歳の娘を思わず見下ろした。(この子が将来、そんなことを平気でするようになるなんて…)そんなことはあってはならないと頭の中で強く否定した。母はすでに罪を犯しているが…。奈美恵は事の重大さに動揺していた。(なんてことを。私はいったい、この半年間、なんという愚かなことをやってきたのか)預金通帳の7桁の数字は、かえって奈美恵の罪の証のように思えた。突然、「ねぇ、おかあさん。おとうさんに言う?」と娘が言った。
ハッとして、「あぁ。ううん。言わない。おとうさんには言わないからね。大丈夫。だから、これからはちゃんとするのよ」「うん。ちゃんと勉強する。だから、おかあさん、もう泣かないでね?」沈んだ様子の母に、自分のしたことの重さを感じていたようだった。「泣かないわよ。さ、勉強するかテレビでも見なさい」「うん」すると、今度は玄関のチャイムが鳴った。宮下のマンションで鳴ったインタホンを思い出して、ビクッとした。「あ、おとうさんだ!」「おとうさん、お帰りなさーい」
子どもたちの声に玄関に行くと夫が靴を脱いでいた。「あら、あなた、電話してくれればよかったのに。火曜日なのにめずらしいわね」「いや、急な仕事でずっと立て込んでいたから。あ、メシはいい」「そう? じゃ、お風呂?」「いや」カバンを受け取ろうとすると、夫が一瞬躊躇したのがわかった。「軽いからいいよ」夫婦の寝室に入っていく夫について行き、「着替えはどうする?」と聞いてみた。「うん。そうだな。やっぱり風呂に入ろう」
風呂からあがってきた夫に、いつものようにビールを用意した。子どもたちはめずらしい父親の姿に少し照れているようだった。娘は母が父親には万引きのことを伝えないと言ったことで、安心はしているものの少々の引け目があるようで、「おとうさん、肩を叩いてあげようか」と殊勝なことを言った。「お、めずらしいな。何もお土産はないぞ」「いいよぉ」「ねぇねぇ、おとうさん。新しいゲームしよ?」今度は息子がゲーム機を持ってきて声をかけた。まるで絵に描いたような家族団らんの様子である。
子どもたちが自分の部屋に引き上げて、奈美恵は翌日の朝食の下ごしらえをして台所をすっかり片づけた。ビールから焼酎に替えてテレビを見ていた夫が、テレビのスイッチを突然切った。「あら、もう見ないの?」「うん」「疲れたんでしょ?」「お前も飲めよ」「私は…そうね、少し飲もうか」グラスを持ってきて、焼酎を少し注いでポットの湯で割った。「すごく久しぶりね。元気だった?」「元気…うん、まあね」何か、言い出したいのに言い出せないような様子に見えた。
「家に帰ってくると正気に戻るというか、こっちの世界って感じがするなぁ」突然、不思議なことを言い出した。しかし、奈美恵にもその言葉が妙に理解できた。まさに、あの宮下のマンションとこの自宅を指しているように思えた。「実は、言いにくいんだが……」ポツリポツリとゆっくり話し出した。単身赴任先で、女ができたというのだった。離婚経験のある飲み屋の女性で、最初ははずみだったという。後はお決まりで、夫の1DKのマンションに女が出入りするようになった。割り切った関係とお互いに始めたものの、女のほうが本気になってきた。妻子の待つ家に帰らせないようになってきて、結婚まで口にするようになったらしい。
→奈落の底を打つ