初演時にその長いキャリアにおいて、“初めて怖いと思った作品”だと語っていました。怖さとは、何に対するものだったのでしょう?
加藤>震災を体験した瞬間の怖さもありますし、このテーマを本当に舞台でやっていいのかという怖さもありました。震災のとき私は家にいて、まずテーブルの下にもぐり込みました。そこで“この次もう命がどうなるかわからない”と思った瞬間、“ここに逃げ込むことが日常になってる戦場の子どもたちがいるんだ”ということを同時に感じてしまった。それまで観念的に思ったり発言はしていても、身体が一気に感じたのがあの瞬間だった。しかも天災ではなく、人間が起こしているとはどういうことなんだと。本当にその一瞬の何秒かだけで、身体が一気にそこへ行った感じでした。武内>震災の後、津波が襲いかかる様子とか、情報が沢山流れてきたじゃないですか。そういう情報がずっと頭にあって、何かざわざわざわざわするんですよね。起こったことに対して身体が共振する。これだけ現場から距離があって、安全な場所にいて、何を焦っているんだと思うけど、深いところで通底しているというか、理屈ではなく共振しているんだと思う。すごく怖いとか、ざわざわするとか、不安だとか、わし掴みにされてる感じが続いて、それをすくい上げるようなことをテーマとして扱えるか不安になった。頭で整理しようとしても、まだあのときは整理の手前だったんだと思います。身体が掴まれた感覚を、とても印象深く覚えています。
加藤>それぞれが体験したことなので、ストーリー化して筋で追っていこうとは考えてなくて。武内さんのざわっとする感じとか、手の節くれ立った様子だとか、かほるさんがふっと止まった瞬間だとか、断片がどこまで届いていくか。それらを自分の身体とつなげながら、何が充満していって、何が引いていくかを見ていただけたらと思っています。風化したときに出てくるものというのは確かにあって、おふたりは笑いながら歩み寄ってきたりする。笑いながら悲しいではないけれど、最後はそういうところへ行けたらと思っています。今度は舞台というより空間的なスペースになるので、一緒に渦のなかにいる共通の空間感覚、時間感覚を持てるようしたいと考えています。
佇まいだけで観る者を惹きつけてしまう、舞台上で放たれるみなさんの存在感に圧倒されます。そのもととなるもの、舞台に立つ人間として心がけていることを何かひとつ挙げるとしたら?
武内>以前は集中できるかできないかがカギでした。一点集中していると、お客さんの方からすると勝手に集中しているだけのような、いやな感じに見えるということに気がついて。内閉する、自閉する、閉じこもりみたいなことです。非常に正しく隠し、集中を拡散させる。その上で、集中を上手く持続させるようにする。そのためには、“自分が、自分が”って言ってたらダメ。とにかく消さないとダメだと思う。存在感、佇まい、物腰、身体についてしまったもの、時間の層。そういったことは、テクニックの問題ではないでしょうね。存在感とか佇まいというのはわかっていてできることではないし、わかっているからこそかえって遠ざかることもありますから。劇場に来たら劇的でなければいけないというのはお約束ですけど、裏切られることも多い。劇場ではなく、日常とか生活の方がハッとすること、劇的なことっていっぱいあって、その積み重ねが大切なんだと思います。
石井>キャリアというのは勝手に付いてくるかもしれないけれど、存在感とか舞台上での佇まいについては自分では全然わからない。ただひとつ言えるのは、昔からものすごく好奇心旺盛なんです。そういうこともどこかに足されているのかもしれません。普段の生活のなかでもいろいろなことに興味があって、電車に乗ったりするとすごく疲れちゃう。ひとがどういうことを考えてるか、そのひとの身体や顔の筋肉を見てるとすごくよくわかります。わかろうとしてこちらも要求してるから、向こうも与えてくれる。だけど、もちろん身体のトレーニングはやらなきゃダメ。それ以外に大事なものとなると、好奇心だったり……、ということがダンスのもとになっている気がします。
加藤>私も同じで、日常にいるひともそうだし、人間以外のこともそうだし、いろいろなことに興味があって。高校生の頃藤井公先生の研究所から帰るとき、京浜東北線の最終電車に乗るのが楽しみでした。酔っぱらいが居るのをみたりするのが面白かった!? 変な高校生ですね。そして舞台に立った時はゼロになる、いかに身体や世界がストンと入ってこれるよう透明な存在になれるかをまず心がけてきました。
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