古都ホイアンの歴史 1. チャンパ王国と広南国
チャンフー通りを行くシクロの集団。古都にシクロがよく映える
ジャングルの生い茂るインドシナ半島では内陸を結ぶ交通網は発達せず、海や川沿いにできた港町を結んで交易を行った。その最たる例が「海のシルクロード」で、中国から西アジアに及ぶ海上ルートがすでに紀元前の時代に成立していた。
ホイアンから50kmほどの位置にある世界遺産「ミーソン聖域」
チャンパはいくつかの良港に恵まれていたが、15世紀に主要港となったのがホイアンだ。チャンパが16世紀にフエを首都とする広南国に押されてベトナム南部に拠点を移すと、ホイアンは広南国の港となり、海外との交易拠点として大いに繁栄した。
古都ホイアンの歴史 2. ホイアンの盛衰
トゥボン川での灯籠流し。夜になると観光客向けの灯籠屋台が出るので、天気さえ許せばいつでも体験することができる
ホイアン名物、米麺料理ラオカウ。一説では、日本人街があった時代に伊勢うどんをヒントに考案されたという
この頃、中国・道教の寺院群、日本風の古民家、西洋風のコロニアル住宅が建設され、この辺りの名産品となっている陶磁器や木工品などの工芸技術も伝えられた。
しかし、17世紀に入ると江戸幕府は鎖国に入り、清も中国南部の沿岸部での居住を禁じた遷界令や交易を禁ずる海禁によって貿易が停止し、オランダの商館も閉鎖されてホイアンの繁栄は終止符を打つ。さらに18~19世紀に西山(タイソン)党の乱によって街が破壊されると、主要港としての役割は大型船の来港に適した深い水深を持つダナン港へ移行した。
闇夜に浮かび上がる遠来橋
実はホイアンの建物の多くは火災によって何度も焼失している。しかし、街の人たちはそのたびに同じような建物を再建し、ホイアンの街並みを保ちつづけた。あらゆる国の旅人がホイアンに懐かしさや安らぎを覚えるのは、街を愛する人々の気持ちが伝わってくるからなのだろう。