世界遺産/アジアの世界遺産

古都ホイアン/ベトナム(2ページ目)

トゥボン川の優雅な流れに、ヤシの林とカラフルな船がよく映える。そんなエキゾチックな景色の中に、洋風のコロニアル住宅、中国風の古民家、ベトナム風の住宅が見事に調和している。東洋と西洋の種々の文化を融合させた歴史ある街並みは、ベトナム人はもちろん、日本人や中国人・フランス人も「懐かしい」と語るノスタルジックな街並みに仕上がった。今回はそんなベトナムの世界遺産「古都ホイアン」を紹介する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

古都ホイアンの歴史 1. チャンパ王国と広南国

チャンフー通りを行くシクロの集団

チャンフー通りを行くシクロの集団。古都にシクロがよく映える

ホイアン周辺には紀元前2世紀頃から集落があり、港町として栄えていた。

ジャングルの生い茂るインドシナ半島では内陸を結ぶ交通網は発達せず、海や川沿いにできた港町を結んで交易を行った。その最たる例が「海のシルクロード」で、中国から西アジアに及ぶ海上ルートがすでに紀元前の時代に成立していた。

世界遺産「ミーソン聖域」

ホイアンから50kmほどの位置にある世界遺産「ミーソン聖域」

貿易で大きく発展した港町を港市(こうし)という。そして現在のダナン周辺に誕生した港市国家がチャンパ王国だ。チャンパは中国-東南アジア-インドを結ぶ貿易で繁栄し、中国の文化の影響を大きく受けつつ、インド伝来のヒンドゥー教を取り入れて独自の文化を切り拓いた。ホイアン近郊の世界遺産「ミーソン聖域」はチャンパによって築かれたヒンドゥー教の聖地だ。 

チャンパはいくつかの良港に恵まれていたが、15世紀に主要港となったのがホイアンだ。チャンパが16世紀にフエを首都とする広南国に押されてベトナム南部に拠点を移すと、ホイアンは広南国の港となり、海外との交易拠点として大いに繁栄した。

 

古都ホイアンの歴史 2. ホイアンの盛衰

トゥボン川での灯籠流し

トゥボン川での灯籠流し。夜になると観光客向けの灯籠屋台が出るので、天気さえ許せばいつでも体験することができる

ホイアン名物ラオカウ

ホイアン名物、米麺料理ラオカウ。一説では、日本人街があった時代に伊勢うどんをヒントに考案されたという

16世紀、広南国は日本の江戸幕府と朱印船貿易を行い、ホイアンに日本人街が誕生した。また、中国の明・清朝との貿易も活発で、中華街が建築された。さらにオランダ東インド会社の商館が設けられ、オランダやポルトガルとの交易も行われた。

この頃、中国・道教の寺院群、日本風の古民家、西洋風のコロニアル住宅が建設され、この辺りの名産品となっている陶磁器や木工品などの工芸技術も伝えられた。 

しかし、17世紀に入ると江戸幕府は鎖国に入り、清も中国南部の沿岸部での居住を禁じた遷界令や交易を禁ずる海禁によって貿易が停止し、オランダの商館も閉鎖されてホイアンの繁栄は終止符を打つ。さらに18~19世紀に西山(タイソン)党の乱によって街が破壊されると、主要港としての役割は大型船の来港に適した深い水深を持つダナン港へ移行した。

 

闇夜に浮かび上がる遠来橋

闇夜に浮かび上がる遠来橋

国際貿易港としての役割を終えたホイアンは歴史の表舞台から姿を消し、地方の一漁港に落ち着いた。こうして政治的な役割を終えたことで、インドシナ戦争やベトナム戦争の標的から外れ、戦火を免れることができた。

実はホイアンの建物の多くは火災によって何度も焼失している。しかし、街の人たちはそのたびに同じような建物を再建し、ホイアンの街並みを保ちつづけた。あらゆる国の旅人がホイアンに懐かしさや安らぎを覚えるのは、街を愛する人々の気持ちが伝わってくるからなのだろう。

 
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