セクシュアルマイノリティ・同性愛/LGBT

歌川たいじさんの『やせる石鹸』で明日も元気に!(5ページ目)

歌川たいじさんが満を持して世界に贈る処女小説『やせる石鹸』が発売されました! 笑えて、泣けて、励まされる。自分を信じて、明日も生きていける。本当に面白くて素晴らしい、極上のエンタメ小説の誕生です。さまざま生きづらさがあるタフな時代、こういう物語が必要とされているのではないでしょうか。今月は、『やせる石鹸』レビューをはじめ、いくつかのトピックについてコラムをお届けします。

後藤 純一

執筆者:後藤 純一

同性愛ガイド

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能町さんの「私はオネエではありません」発言について

性別適合手術を受け、戸籍も男性から女性に変更した能町みね子さんが、とあるテレビ番組の「華麗なるオネエ史」というボードで勝手に「東大卒オネエ」と紹介され、「私はオネエではありませんのでテレビ局の人は訂正してください」「ざっくりホモとかオカマとかオネエとかに分けることによって植えつけられる偏見とか先入観とかをぶち壊したいと思ってやってますんで、絶対に許しません」と抗議しました。スポーツ紙などの取材で能町さんは「オネエという表現は、差別に受け取れます」と語り、これに対してクリス松村さんが「もの凄くショックでした」「文字から受けた印象だと、自分のしてきたことを全否定されているような哀しさを感じます」「マイノリティがマイノリティを傷つけるという哀しさ…」とコメントし、悲しみました。

ネット上では「怒るのはあたりまえだと思うな」といった共感の声と同時に、能町さんがもともと『オカマだけどOLやってます。』という単行本で有名になったことに触れて「オカマはよくてオネエはダメなのか」といった批判の声も上がりました。 

こちらの記事によると、本を出した当時(2005年)は「オネエなんて言い方もなかったし、どうせ何かを名乗らなきゃいけないんなら自分の一番嫌いなやつを名乗ってみよう」という「自己防衛、兼、自傷行為みたいな」気持ちでオカマという言葉を使ったと語っています。また、(性別適合)手術をして戸籍も変えたことをきっかけに、「もうオカマじゃなくなりました」と(ブログで)宣言。「それで私の中では終ったつもりです。まさかその後、今みたいにテレビに出るようになるとは思っていなかった」と語っています。テレビに出るようになってからは元男性であるということにはほとんど言及されていないそうです。「私の周囲の友達は過去の性別がどうだったとかいちいち気にする人ってあまりいなくて、みんなサラッとしているのでつきあいやすいです」 

このニュースを知ってまず思ったのは、今テレビで言われている「オネエ」という言葉自体がとても曖昧なものだということです。もともと「オネエ」は二丁目に特有の大げさな女言葉(必ずしもリアルな女性の言葉ではない)とか、しなをつくったりする特有の仕草、そういう言葉や仕草のゲイやMTFトランスジェンダーの人のことを指す言葉でしたが、テレビでは(「ニューハーフ」のように)商売としてそれをやってる人というニュアンスでしょう(なので、尾木ママのように、ゲイじゃなくても「オネエ」たりうるわけです)。約10年前に『おネエMAN’S』という番組で世間に広まったと思いますが、番組自体が、アメリカの『クィア・アイ』みたいにヘアメイクの人とか料理の達人とかいろんな「その道のプロ」が出てきて技を伝授するみたいな内容が好印象だったこともあって、「オカマ」は差別的だけど「オネエ」はいいんじゃない?というムードが生まれたのかな、と思います。その後、マツコさんら二丁目のクイーンたちも続々と出演するようになり(「オネエ」ブーム)、今に至るわけです。

しかし、よく考えてみると、テレビのバラエティでは相変わらずはるな愛さんとかが「おっさんやないか!」と罵られるわけで(トランスジェンダーの人にとって、これ以上ないくらいひどい暴言ですよね)、名前が「オネエ」になっただけで、扱いはまだまだ色モノレベル、バカにされても文句が言えない立場なのかな…という気がします。これでは「オネエ」と言われて怒る人が出るのもムリはありません。そういえば、二丁目では今、オネエという言葉をほとんど聞かなくなっています(もともとの自分たちのオネエとは違うものになってしまったから? ある意味「言葉を奪われた」のかもしれません)

今や女性としてテレビに出ている能町さんは、別にオネエ言葉で笑わせるキャラではなく、トランスセクシュアルではありつつも、ある意味、椿姫彩菜さんや佐藤かよさんのように女性タレントとしての扱いを望んでいるのでしょうから、「オネエタレント」というくくりにしてよいのかどうかということについては、やはり本人に確認しなければいけないし、その意思は尊重しないといけないでしょう、という話です。

一方で、クリスさんが「全否定されたような気がした」と語るのは、クリスさんが「オネエ」を自認し、そこに誇りを持っているからだと思います。その気持ちもわかります。自他共に認める「オネエ」として頑張って頑張ってようやくテレビに出られるようになったクリスさんは、「『普通』を目指してる(特殊な人として区別されたくない)」と主張する能町さんとは土台が全然違うわけです。

この話って、アイデンティティとかプライドの違いに還元されると思うんですよね。能町さんはもはや(かつて自称していた)「オカマ」ではなく、すでに完全に女性として生きている(女性アイデンティティになっている)わけで、そこにプライドを持っている(女性として扱われたい)。クリスさんはずっと「オネエ」アイデンティティで生きていて、そこにプライドも感じている(「オネエ」として輝きたい)。その隔たりは、同じセクシュアルマイノリティといえど、果てしなく遠いものなのだと思います。ひとことでいうと「普通(標準、マジョリティ)」と「クィア(非典型、マイノリティ)」の偏差です。

セクシュアルマイノリティの中でも「普通」を目指す人は、特別扱いされないこと(平等の実現)、世間の人たちと同じように生きることを志向します(ある意味、そっとしておいてほしいのです)。逆に、「オネエ」のようにどうしたって目立ってしまう「クィア」な方は、世間の人たちに「このままの私を受け入れて!」と主張しますし、逆に特別な個性を強みとして(売りにして)生きたりもします。一方、多くのLGBは、公の場ではできるだけ「普通」を装いつつ、プライベートでは「クィア」に生きるという処世によって、世間からの差別をやり過ごしてきました(今ではそれも変わりつつあると思いますが)

ひとくちにセクシュアルマイノリティ(LGBT)といっても、ほぼノンケ(ストレート/シスジェンダー)な人から超クィアな人まで実に幅広く、生き方も価値観も目標もまるで異なる人たちが含まれています(LGBTとは誰のことを指すのか、ということすら見解の一致を見ていません)。そういう意味では、LGBTの運動には本質的にややこしさ(ベクトルの違いから生じる連帯しづらさ)が伴うものなのだということを、最近とみに感じています。
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