世界遺産/アジアの世界遺産

古都アユタヤ/タイ(2ページ目)

アンコール、スコータイ、ビルマ、セイロン…数々の文化を吸収し、東南アジアの集大成をなしたアユタヤ王朝。破壊し尽くされた廃墟ながら、こうも美しいのはなぜ? 今回はタイの首都バンコクからも近いタイの世界遺産「古都アユタヤ」をご案内!

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

古都アユタヤ、400年の歴史

ワット・ヤイ・チャイ・モンコンのチェディからの眺め。このチェディは1569年にビルマに侵略されたアユタヤを再興したナレースエン王の戦勝記念碑 ©牧哲雄 

ワット・ヤイ・チャイ・モンコンのチェディからの眺め。このチェディは1569年にビルマに侵略されたアユタヤを再興したナレースエン王の戦勝記念碑 ©牧哲雄

海がなくてもアユタヤは港町だ。三方をチャオプラヤー川、パーサック川、ロッブリー川に囲まれて、チャオプラヤー・デルタの豊かな平原を利用して、この地は古代から大いに繁栄した。

もともと中国の雲南省近辺で暮らしていたタイ族(小タイ族)は、モンゴルの中国進出を受けて南へと移動する。はじめはアンコール朝の支配下におさまったタイ族だったが、アンコール朝の力が衰えると、まず13世紀に現在のタイ北部にスコータイ王朝を建国。スコータイの弱体化を機にさらに南下したタイ族の一派は、1351年、ウートーン王(ラーマーティボディー1世)を掲げてアユタヤ王朝を建てる。

ワット・プラ・マハタートの、破壊を逃れた数少ない仏像。アユタヤにはたくさんの仏像があるが、仏像のバリエーションはアンコールなどと比べて非常に少ない

ワット・プラ・マハタートの仏像。アユタヤにはたくさんの仏像があるが、仏像のバリエーションはアンコールなどと比べて少ない

東南アジアは多数の国や都市国家が乱立していた時代で、アユタヤ王朝は、北にスコータイ、東にクメール、南にマラッカ王国、西にビルマと、四方を強国に囲まれていた。1362年、クメール王朝のアンコールを攻めて領土を広げると、1438年にはスコータイを吸収。東南アジア最大の国家となる。

16世紀になるとポルトガルやスペイン、オランダ、イギリスらと通商条約を結び、「シャム」と呼ばれたアユタヤ王朝は世界規模の貿易によって大いに繁栄する。

やがてアジア各国が次々と植民地化されるなか、アユタヤは欧米列強との巧みな外交政策を通して独立を貫いたが、1767年、ビルマ・コンパウン朝のシンビューシンによって陥落し、400年に及ぶ王朝は幕を下ろす。
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