早替りの凄さ
2014年8月。前月にNYで大評判となった「怪談乳房榎(かいだんちぶさのえのき)」が歌舞伎座で、凱旋公演として上演されています。怪談乳房榎より
この芝居は中村勘九郎さんが一人三役(絵師・菱川重信、下男・庄助、悪党・うわばみの三次)の早替りを見せるところが最大の見所となっています。
その早替りの素晴らしさは、歌舞伎の知恵の集大成とも言えるもの。とても同じ人が演じているとは思えないスピードで次々と役が入れ替わっていきます。
特に最高の驚きは私たち観客の目の前、それも全身がむき出しの花道の上での入れ替わりでしょう。まさに電光石火。一瞬の技には息をするのすら忘れてしまいます。
これらの早替りを支えているのが役者の身体の使い方です。衣装や鬘が変わるだけでは、単なる着替えにしか見えないからです。つまり、演じる役が変わる瞬間に身体の使い方が変わるのです。
この芝居で言えば元は武士だった菱川重信は背筋がピンと伸び、身体の使い方も直線的です。下男・庄助は背中がやや猫背でチョコチョコした動き。悪党の三次は町人ですからキビキビと早い足運びで歩く。そうした切り替えを一瞬で行っていきます。しかし、こうした工夫だけが、早替りの面白さではありません。
さらなる驚きへ
「怪談乳房榎」の大詰。本物の水を使った大滝の立ち回りというダイナミックでワクワクする場面があります。怪談乳房榎より大滝の立ち回り
最後に悪党の三次が滝壺に倒れ、滝の中に重信の幽霊が姿を見せ、庄助がうずくまる。そこから庄助が花道へ駆け出すと、それが勘九郎さんだと分かり、客席から驚きの声が上がります。
ここで直前の仕込みが凄いのです(勘三郎さんも必ずしていた工夫)。
その秘密は、この三人が同時に舞台に現れる直前の庄助の動きにあります。
ここまでは、三人が早替りするたびに、勘九郎さんは身体の使い方をきちんと役そのものに切り替えます。だから入れ替わった直後でも、顔を隠していてもどちらが勘九郎さんかわかります。
しかし、最後のところだけ、庄助の身体の動きが変わるのです。ややぎこちなく、ちょうど先ほどまで見ていた吹替えソックリの動きに(早替りのために同じ扮装をした吹替を使うのです)。
その動きの不自然さのために、庄助が吹替えに見える。滝壺に落ちた三次は違うだろう。ならば重信の幽霊を演じているのが勘九郎さんだと客席は視線を滝に向けます。と、その瞬間、吹替に見えていた勘九郎さんが声をあげて花道へ駆け出す。この呼吸の抜群のタイミングが、ええっ!?という驚きを生み出します。この技の素晴らしさ。
吹替の二人は勘九郎さんかと思えるレベルまで力を出し、勘九郎さんはあえて身体の使い方をぎこちなくすることで吹替えに見せる。役者の身体の使い方の技と、呼吸、全てが美しいバランスのうえに成り立っているのです。
早替りそのものには、大きなドラマ性はありません。しかし、多くの技のうえにしか成り立たないのもまた真実。早替りを単なるショー的興味で終わらせないのは、やはり役者の芸なのです。
これからも、様々な役者が、いろいろな演目で早替りを見せてくれるでしょう。中には市川猿之助の一人十八役(!)という驚異的な芝居もあります。その時は是非こうした工夫や身体の使い方にも注目してみてください。