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設立10周年!金森穣が語るNoismの過去と未来<前編>(5ページ目)

2004年に日本初の劇場専属舞踊団として新潟に誕生したNoism。3年ごとの契約更新を繰り返し、2014年4月をもって設立10周年を迎えました。ここでは、芸術監督の金森穣にインタビュー! 設立のきっかけから現在までの道程、今後の構想をお聞きしました。

小野寺 悦子

執筆者:小野寺 悦子

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メンバーも決まり、いよいよ立ち上げを迎えます。
当時の心境はいかがでしたか?

金森>今思うとすごく尖ってた。メンバーに対しても厳しかったけど、自分に対しても苛立ってた。世の中に対してすごく苛立ってましたね。リハーサルにしても、今はゆるやかにやる時もあるし、ある程度時間をかけて急かさないでやることも必要だと思う。その方が自由な発想が出るときもあるし、さじ加減は考えます。

だけど、10年前は選んでない。必死だったし、そんな余裕はなかったから。ゆるめ方もわからないし、切羽詰まってたなと思います。自分も踊ってるし、教えてるし、打ち合わせも出てるしで、取りあえず、必死だったことしか記憶にないですね。

新潟市や財団のひとたちと会議をしたり、コレをやりたいと言ってはダメだと言われたり……。今はほとんどスタッフに任せてるけど、当時はそういう実務的なこともほとんど自分でやらなければならなかった。加えて舞踊家の踊りも上達させなきゃいけないけど、佐和子ですらプロジェクト気分なんだから、他の子たちなんてもう遠足気分。自分たちが今持ってるスキルで勝負できるって考えてるから、ふざけるんじゃないって思ったし、それはもうしごきましたよね(笑)。

一回限りのプロジェクトだったらそれでもいいですよ。プロジェクトの場合一緒に時を過ごすのは長くても2ヶ月くらいだから、その間に教えられること、できることって限られてる。みんなが最善の力をそこで出すために、本番に向けてテンションを上げて、いい状態にもっていくよう誘導する。だからこれまでゲストでいろいろな場所へ振付に行ったけど、基本的にみんなに好かれていたと思います。でもカンパニーとなったらそうじゃない。ひとつ作品を発表しても、また次がある。今までより、これからなんです。だから“オマエらと死ぬまで行くぞ”っていう気概でいる。それは今のメンバーに対しても同じ。

振り返ると、設立時は気負い過ぎてたのかもしれないとは思います。でも、ここで財団との折衝で挫けたり、舞踊団なんて辞めなさいと言われたりしたら、日本の舞踊界のその後に、これからこの国で活動してゆく舞踊家たちの将来に関わってくる。作品に対して評価が低ければお客さんはどんどん減っていくだろうし、舞踊家たちの技術を磨いていかなければ自分の作品だって良くならない。本当に課題が沢山あった。

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『ZONE ~陽炎 稲妻 水の月』(2010年)
academic / nomadic / psychic 撮影:鹿間隆司

 

芸術監督就任時、金森さんは29歳とまだまだ現役で活躍できる時期。
舞踊家としてもっと名を成したい、もっと踊りたいという欲はなかった?

金森>ありましたよ。あったけど、この国の状況を見渡したら、ここで自分が日本初の劇場専属舞踊団を成功させないとダメだと強く思っていた。例えば自分の公演をどんどん打って金森穣が有名になったとしても、自分の夢は叶わない。目標はそういうことじゃない。それに自分が公演に出ていたら、たぶんNoism=踊る金森穣になる。それで自分が踊れなくなったらNoismがなくなる。舞踊界からまたレジデンシャルが消える。それは最初からわかっていましたから。


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見世物小屋シリーズ第1弾『Nameless Hands ~人形の家』(2010年・再演) 撮影:村井勇


 

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