紫禁城と瀋陽の皇宮の歴史1. 消失した明の紫禁城

朱と黄金で囲われた紫禁城の壮大な景観。正面の建物が太和殿

朱と黄金で囲われた紫禁城の壮大な景観。正面の建物が太和殿

簡単に紫禁城の歴史を追ってみよう。

元の時代、北京の地は大都と呼ばれ、元朝の冬の都として繁栄した。1368年、太祖・洪武帝(朱元璋)が明を建国して中国を統一すると、拠点は南京に移される。

幅52m、深さ6mにもなる堀と、紫禁城の四隅に建つ角楼 ©牧哲雄

幅52m、深さ6mにもなる堀と、紫禁城の四隅に建つ角楼

1402年、北京を守っていた燕王が靖難(せいなん)の変と呼ばれる反乱によって皇帝に即位すると、永楽帝を名乗って都を北京に戻す。この際、永楽帝が建設し、1420年に完成したのが紫禁城だ。

大帝国を築き上げた明だったが、1644年に李自成は北京を包囲すると火を放ち(李自成の乱)、紫禁城は灰になり、明は滅んでしまう。

一方、1616年に万里の長城の北に後金を建てたヌルハチは、明軍を破りながら国を広げ、1625年に瀋陽に都を移す。世界遺産としての登録名である「北京と瀋陽の明・清朝皇宮群」の瀋陽の皇宮とはこの頃のものをさし、2004年にこちらも世界遺産として拡大登録されている。

 

紫禁城と瀋陽の皇宮の歴史2.  紫禁城と故宮博物院

ヌルハチが建てた瀋陽故宮の大政殿。ここで各種式典を執り行った。モンゴルの移動式住居パオを模して造ったため八角形になったと言われている ©牧哲雄

ヌルハチが建てた瀋陽故宮の大政殿。ここで各種式典を執り行った。モンゴルの移動式住居パオを模して造ったため八角形になったと言われている ©牧哲雄

ヌルハチの死後、息子ホンタイジは国名を「清」に改め、2代にわたって万里の長城を攻めるが、どうしても東端にある山海関が破れない。

高さ10mもある城壁内。映画『ラストエンペラー』では溥儀が自転車に乗って長西街を通り抜け、門の外に出ようとして止められた

高さ10mもある城壁内。映画『ラストエンペラー』では溥儀が自転車に乗って長西街を通り抜け、門の外に出ようとして止められた

そんなとき起こったのが李自成の乱だ。山海関を守っていた呉三桂は明滅亡と李自成による謀反を聞くと、清と和解して山海関を開き、清は北京を攻めて李自成を破る。

清はそのまま北京を都として中国の支配を固め、順治帝、康熙帝、雍正帝、乾隆帝という中国史上に残る名皇帝の登場によって大帝国を築き上げる。同時に、燃やされた紫禁城は明代の土台を利用して再建され、現在の姿となった。

時は下って1912年に清が滅亡。ラスト・エンペラー溥儀(ふぎ)が1924年に紫禁城を退去すると、翌年から紫禁城はかつての宮殿=故宮という名を与えられ、博物館・故宮博物院として公開されるようになった。