世界遺産/インドの世界遺産

アジャンター石窟群/インド(3ページ目)

デカン高原の溶岩台地を切り裂く緑美しいワゴーラ渓谷。その断崖には紀元前2~後7世紀にかけて掘り抜かれた30の石窟が口を開けており、内部はおびただしい数の仏像やストゥーパ・彫刻・壁画で彩られている。インド仏教美術の最高峰といわれるそれらの作品はシルクロードを通って中国・朝鮮半島・日本に伝えられ、東アジアの仏教文化に大きな影響を与えた。今回はインドの世界遺産「アジャンター石窟群」を紹介する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

アジャンター石窟群の歴史
1. 上座部仏教の時代

第26窟のストゥーパと列柱

第26窟のストゥーパと列柱。石窟は人工的に掘られた洞窟であるから、本来柱や梁・垂木は必要ない。右の柱や垂木は木造の僧院や寺院を模してデザインされた ©牧哲雄

第19窟のファサード

第19窟のファサード。デザインは第26窟と似ている ©牧哲雄

アジャンターが開窟されたのは紀元前2世紀前後。なぜこんな秘境に石窟を築いたのかは明らかではないが、古今東西圧倒的な大自然はいつも信仰の対象で、人はメテオラカッパドキア九寨溝のように自然の側に教会や寺院を築いて修行を行った。インドの僧たちもワゴーラ渓谷の壮大な自然に仏を感じたのかもしれない。

紀元前の時代、インドの仏教といえば実践を重んじる上座部仏教(小乗仏教)。もともと原始仏教は宗教というより哲学で、何かに祈るというより知性と感性を研ぎ澄ませて真理を追う活動だった。次第に宗教化していくわけだが、この頃はやはり出家して行う修行が重要視された。

だからヴィハーラ窟(僧院)はシンプルで、チャイティア窟(寺院)のストゥーパも象徴といった程度のもの。僧たちは世俗の生活を捨て、ワゴーラ渓谷で命懸けの修行を行った。

 

アジャンター石窟群の歴史
2. 大乗仏教と衰退

第2窟の釈迦如来

第2窟内部、中央が本尊の釈迦如来。周囲には千体仏が所狭しと描き出されている ©牧哲雄

第26窟の涅槃仏

第26窟の涅槃仏。ブッダ入滅(死亡)直前の様子を描いている ©牧哲雄

アジャンターは2世紀に一端放棄されるが、3~5世紀に大乗仏教が普及するとふたたび開窟された。この頃にはガンダーラやマトゥラーから仏像が伝わっており、真理は如来や菩薩として仏像の形で表現された。石窟は仏の空間を表す神聖な場所となり、彫刻や壁画で飾られた。

後期の石窟はハイダラーバード藩王国・ヴァーカータカ朝などの支援を受けられたことも大きい。王たちが寺院を寄進し、インド北部で発達したグプタ美術のアーティストを集めて腕を振るわせた。


 
未完成の第24窟内部

未完成のまま放置された第24窟内部。未完成の石窟も少なくない ©牧哲雄

この頃急速に発達したのがヒンドゥー教だ。ヒンドゥー教はバラモン教をベースとして、各地の民間宗教を取り込んでなんとなくできあがった雑多な宗教だが、グプタ朝の時代に『マヌ法典』や『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が広がって一気に普及した。アジャンターにも創造神ブラフマーや雷神インドラ、獅子の神シンハー、音楽の神キンナラが描かれていたりするのだが、これらはヒンドゥー教の影響だ。

やがてヒンドゥー教は仏教の神々をも取り込んでインド全土に拡大。その過程で仏教もヒンドゥー教化して差がなくなり、吸収されて衰退した(一部は密教として伝わる)。その様子はアジャンター衰退後に発展したエローラ石窟群を見学するとよくわかる。

特にグプタ朝がヒンドゥー教を国教化すると仏教は急速に衰退し、アジャンターは7~8世紀に放棄されて森に飲み込まれ、およそ1300年にわたる眠りに就いた。
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