古都アレッポの歴史1. アラム人とシリア
アレッポ城。周囲約2.5kmの円形で、堀は深さ22mあって、以前は水が満たされていた
キャラバンサライ、ハーン・アル・ワジルの入り口 ©牧哲雄
生活するには過酷だが、森林や湿地に比べて移動するのは簡単だ。だから古来、砂漠の周囲の川沿いに人が集まり、文化が交流し、やがて大きな文明へと発展した。チグリス・ユーフラテス川沿岸に誕生したのがメソポタミア文明だ。
アレッポはユーフラテス川の緑と地中海沿岸部の緑に間にある。メソポタミアの人々はここを通ってトルコやヨーロッパ、エジプトに抜けた。紀元前1200年以降、この砂漠の交易を支配したのがアラム人だ。
アラム人は乾燥に強いラクダに荷物を運ばせ、キャラバン(隊列)を組んで砂漠を渡り、各地の名物や名産品を運んで貿易を行った。隊商貿易だ。アラム人がメソポタミアを広く行き来したためにアラム語がメソポタミア共通語になり、やがてアラム文字はヘブライ文字やアラビア文字、モンゴル文字など、アジアの多数の文字のもとになった。
そのアラム人の拠点がダマスカスやハマ、アレッポだ。ダマスカスとアレッポがシリアの世界遺産で、ハマもシリアの暫定リストに記載されている。
ちなみにその頃、海を支配したのがフェニキア人だ。地中海貿易を担い、フェニキア文字はアルファベットのもとになり、ヨーロッパ各地の言葉に引き継がれた。彼らの拠点がシドンやバールベック、ティルスやビブロスで、すべてレバノンの世界遺産。世界遺産を見ると、シリアやレバノンがこの時代の影響を大きく受けていることがわかる。
古都アレッポの歴史2. 他文化共存の街
アレッポ城、謁見の間。大理石造りでシャンデリアがあり、天井にはステンドグラスがはめられている
グレート・モスク前のキャラバンサライ。石造りに木造の出窓を合わせたデザインが美しい ©牧哲雄
紀元前1000年頃にはアレッポを見下ろす丘の上に神殿が建てられたらしい。ここを中心にスークやキャラバンサライが整備された。そして街並みは主にギリシア・ローマ時代に改修され、石とレンガ造りに建て替えられた。これが現在の旧市街のベースになっているようだ。スーク内部には洗礼者ヨハネの父ザカリアが亡くなったといわれる伝説の墓があり、この上にキリスト教会が建設された。
しかし、7世紀にイスラム教が成立すると、ウマイヤ朝、アッバース朝といったイスラム帝国がアレッポを占領。715年にキリスト教会はモスクに改修された。これがグレート・モスクだ。
1095年、聖地エルサレム奪回を目指す第1回十字軍がトルコのアナトリア高原を横断して西アジアに侵入。丘の上の神殿跡はアレッポ城として改築され、攻撃に備えた。
キリスト教区のマロニテ大聖堂。この地域のレストランではイスラム教で禁じられているお酒も飲める ©牧哲雄
こうした十字軍国家はアイユーブ朝の英雄サラディン(サラーフッディーン、サラーフ=アッディーン)に次々と滅ぼされ、アレッポもその支配下に入る。この後もモンゴル帝国、イルハン朝、マムルーク朝、オスマン朝と国は変わるが、イスラム教の都市として繁栄は続いた。
このように、アレッポは古代より文化が交差するところ。そして戦いの繰り返しでもあった。そして2012年からまた戦火にさらされている。