この先百年も
この『百年の憂鬱』が素晴らしいと思うのは、恋愛というものの割り切れなさ、なりふりかまわなさ、不条理とも思えるほどの情念の激しさを見事に描いているからだけではありません。ユアンが「冷めた文体の下に武士のような熱情を感じる」と看破したように、義明は、理性の下の熱情を爆発させ、ドロドロの泥沼の底から「YES!」と叫びをあげたのです。そこを読んだ瞬間、思わず涙がこぼれてきました。その純粋さに胸を打たれ、かつて自分が経験した苦しみが癒されたような気がしました。そして、この物語が本当に愛おしく思えるようになりました。もう1つ、この小説が、ゲイ小説として、本当に大切なことを語っていると思える部分があります。
こういうくだりです。
松川が生きた時代、ひとたび同性愛者とバレたら「『変態』のレッテルを貼られ、そのまま人間失格、まっとうな社会から放逐されることを意味した」。「そんな絶望の内でさえ、人は誰かのぬくもりを求め、気持ちを通じ合わせることを断念しきれなかった。その愛し合うことへの希求、関係し合うことへの切望が、今日のユアンの足下にもつながっている」
百年前から変わらず同性愛者たちを突き動かしてきた恋の感情の激しさや切実さこそが、ゲイがのびのびと生きていける今の時代の僕らの幸せにつながっているのだ、と言うのです。実在のバーのマスターに根気よく取材しつづけてきた伏見さんだからこそ語れる真実だと思います。
小説のタイトル『百年の憂鬱』とは、百歳を迎えようとする松川の時代のリアリティ…何十年も毎日「呪い」のようにホモフォビアを浴び続けてきた人の苦難(受難)に対してつけられた形容のように思えます。その毒は、百年たってもそうそう消えることはなく、ずっと心を蝕んでいるのだと。でも、恋が本気すぎて鬱っぽくなってしまうユアンのことを思うと、誰かを求め、恋せずにはいられない感情の、その不変性(普遍性)こそを、そう呼んでいるようにも思えます。
百年後にはきっと、もう松川の時代のリアリティなんて誰も理解できなくなっていることでしょう。もしかしたら、彼氏とそのパートナーと自分の三角関係みたいなことも、誰も気にしない(オープンリレーションシップが当たり前な)時代になっているかもしれません。しかし、それでも変わらず未来のゲイたちは本気で恋するだろうし、それゆえの「憂鬱」はなくならないだろうな…と思います。
人類が何百万年も前から経験してきた(遺伝子に刷り込んできた)恋愛の衝動とは、どれだけ社会が「進歩」したとしても解明できない、人類に残された最後の自由であり、人間らしさの拠り所であり続けることでしょう。そういう意味で、この小説は百年経っても読み続けられるような、普遍的な恋愛小説、永遠の名作だと思います。