日刊新聞初の求人は、「乳母」
明治29年に募集された乳母の条件は、「20~25歳で過去数カ月の間に出産し、体格肥大にして強壮なる者」。 |
「報告
乳母を雇入れたいので心あたりの者は(中略)御尋ねください。本乳にして乳さえよろしいならば給金は、他のところより高く差し上げます」
400人もの工女たちが働いていた富岡製糸工場
1872(明治5)年に群馬県に設立された官営富岡製糸工場で工女を募集しましたが、「異人(いじん)に生き血をしぼりとられる」という噂が広まり、人集めに苦労したようです。そこで、各府県に確保する人数を割り当て、全国各地の士族の子女たちが集められました。彼女たちは、フランスから招かれた技師の指導のもと、製糸器械を使った新しい技術を身に付け、伝習工女として全国へ技術を広めたのです。彼女たちの労働力により、日本の絹は、日本輸出商品の第一位にまでなり、「日本は絹で軍艦を買う国である」と言わしめるほどになりました。
子どもが欲しい、子どもを譲る。結婚相手も
子どもを産んでも育てられない人、欲しくてもできない人たちが、新聞の広告を使ってそれぞれ、もらってくれる人、譲ってくれる人を求める時代もありました。 |
大正時代になると、女性に「容姿端麗」であることを求める広告が見られるようになってきます。続きは、こちら→「容姿端麗、良家の子女」求む!