その輝かしいキャリアの始まりは、全く普通の時給620円のパートの仕事。 |
「時給620円、簡単な電話業務」。キャリアのスタートはいたって普通だった
昭和女子大学卒業後、旅行業界に就職した横井さん。結婚後は、外資系化学会社に勤務する夫の転勤について、あちこちと引越しを繰り返しながらも、女の子2人を育てる専業主婦でした。転機は、39歳のときに訪れました。東京に転勤した直後、お母様を事故で亡くされ、「寂しい」という気持ちと、タイミング的に子育ても一段落していたところだったので、「社会との接点を持ちたい」、「好きな仕事がしたい」という気持ちから、当時西武クレジット(現クレディセゾン)が募集していた、「1日4時間勤務、時給620円」のオペレーターのパートに応募したのでした。
仕事上での工夫が次々を認められ、責任も増えていった
横井さんの仕事は、カードの支払いが遅れている利用者に、電話で入金を催促するもの。時には、「電話口で顧客に怒鳴られることも少なくなかった」と言います。「どうしたら顧客は納得してくれるだろうか」と、対応法を工夫する姿勢や、誠意を持って顧客と向き合う姿が評価され、2年後には12人を束ねる係長級のスーパーバイザーに昇任しました。
また、「支払いの遅れた顧客に入金を案内するための知識集」と、「対話の流れに重点を置いたトーク集」などオペレーションマニュアルをまとめ、新人研修で活用するなど、研修や指導に当たるインストラクターとして活躍。その後も順調にキャリアを重ねていきました。
お嬢さんへの思いを綴り、自費出版で形に。 |
思いがけない家族の病。そして・・・
家庭と仕事の両立させながら、充実した日々を送っていた横井さんですが、思いがけないことが起きます。51歳の時、当時早稲田大学大学院生1年生だった長女、摩優(まや)さんにガンが発覚したのです。看病のため、退職することを何度も考えた横井さんですが、摩優さんは、「私のために辞めてはだめ」と。横井さんは、その言葉を受け、仕事を続けていました。
残念ながら、発病後から2年経った00年7月、摩優さんは、亡くなりました。24歳でした。横井さんは、何も手に付かない状態になり、仕事も休み、もう辞めようとも思っていたそうです。
それから1ヶ月ほど経ったある日、訪問者がありました。それは、中国の内モンゴル自治区にあるホルチン砂漠で植林活動をしていた摩優さんの恩師でした。恩師は、「摩優の樹」と名付けたポプラの木を砂漠に植えた話をしてくれたそうです。
「過酷な環境でも青々とした葉を付けるポプラに娘の姿が重なり、それまで明日が見えなかった生活に光が差した気がしました」と横井さん。上司からの励ましもあり、仕事を続けることを決めました。
「一生懸命生きた娘に恥じない生き方をしなくては」と決心したこととは?!次ページへ>>