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ネパール政治の基礎知識2006(2ページ目)

国としての知名度はあるのに政治情勢についてはよく知られていないネパール。一方で伝統の国、もう一方で近代化が大きく停滞している国。ネパール政治基礎知識、2006年版です。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【19世紀になっても独立を「保ててしまった」ネパール】
2ページ目 【迷走するネパールの近代政治、その歴史とは】
3ページ目 【民主政治と国王独裁を繰り返すネパールとマオイストの台頭】

【迷走するネパールの近代政治、その歴史とは】

「独立できていた」ネパールの遅れた近代化

ダルバール広場
カトマンズのダルバール・スクウェア。旅行者に郷愁を感じさせるこの風景は、同時にネパールの「時計が進む遅さ」を示すものでもある(Photo:(c)ALPINE PHOTO GALLERY
ネパールの首都カトマンズでテレビ放送が始まったのは1985年でした。そのテレビは何を伝えたのでしょう。マンジュシュリ・タパ氏の著作『ネパールの政治と人権』(明石書店)から、印象的な部分を引用してみます。

結局ニュース番組では、国王の活動が重大ニュースを独り占めした。例えば、たとえその日に彼が行ったことが公共水飲み場の落成であったとしても。外国のニュースは最後で、あたかもあと付けしたかのようであった。二つのドイツが統合する時やペレストロイカがソビエト連邦を崩壊させた時もそうであった。

このことに象徴されるように、独立の維持に苦心した日本や中国、苦心の独立の後に経済発展をめざしたインドやパキスタンなどと違い、「なんだか結果的に独立を保てていた」ネパールでは、危機感から来る「自発的な」近代化が、結局かなり遅れてしまったということがいえます。

2001年の段階でも識字率は推定で54%。1人あたりGDP(国内総生産)はラオス(339ドル、2003年)よりも低い269ドル(2003~04年)。……侵略を受けなかった幸運な国としては、あまりな状態です。

ヨーロッパ列強の植民地でなかったことも近代化を妨げた原因……といってはいけないのでしょうが、そう思う人もいるようです。世界から隔離され、ヒマラヤの登山家を受け入れるだけだったネパールは、20世紀後半になっても封建社会のような不思議な国のままだったのだ、と。

血塗られた王家の歴史

広場
ネパールでは近代になっても時が止まり、中世までのような王家の内紛が近代になっても絶えなかったが、独立は保てていた。写真はカトマンズの寺院(Photo:(c)ALPINE PHOTO GALLERY
旧植民地のなかには、絶えなかった王朝内の内紛が、国家の結束や近代化をうまく果たせず、侵略を許してしまった、という国が多く見られます。

しかし、「なんとなく独立を維持できてしまった」ネパールでは、周囲の状況をよそに、王家のなかでは絶えず悲惨な内紛が起こっていました。

まず1806年、事実上ネパールを支配し圧制をしいていた元国王、ラナバハドゥル法王が暗殺されます。その後、執政として政権を担当していたビムセンが1838年幽閉され翌年獄死。

1845年、勢力を増していた首相(将軍とも)マートバルシンハは、ラジェンドラ王と第2王妃(摂政女王)の陰謀で王宮内にて射殺。そのあと勢力を増した第2王妃の寵臣ガガンシンハが1846年礼拝中に銃殺。

この事件の処理をめぐって対立が生じ首相ファッテジャンガは暗殺。その後、第2王妃の命でジャンガ将軍が重臣たちの大部分を銃殺(いわゆる「王宮大虐殺」)。

そして第2王妃とジャンガとの間で王の後継者をめぐって不和が生じ、第2王妃と王はインドに脱出。その後、王は挙兵するも敗北し幽閉。スレンドラ新王のもと、ジャンガが全権を握ります。

このような凄惨なこと続々と起きていたにもかかわらず、ネパールは統一と独立を保ち続けていたのですから、なんとも不思議な感じがします。

「ラナ支配」という時代

カトマンズ
現在の首都カトマンズの様子。(Photo:(c)ALPINE PHOTO GALLERY
さて、将軍ジャンガとその一族は聖なる姓といわれるラナ姓を賜り、マハラジャ(首相、将軍、大王とも。国王よりは下という奇妙な言葉)の地位に上り詰めます。

これ以降、ラナ家によるマハラジャ支配、「ラナ支配」時代が約1世紀にわたって続くことになります。

ジャンガがマハラジャになると、ネパールは一時安定します。イギリスとの親好を深めたのは彼の方針によるものです。国法の制定や迷信の禁止などの近代化も進められました。しかし民衆への抑圧はむしろ激しくなっていきました。ネパール兵をイギリスのために提供しはじめたのもジャンガの時代からです。

その後の激しいラナ家内部の権力争いのあと、1901年にマハラジャになったチャンドラは、近代化政策を押し進める一方、壮麗な宮殿を建て、良質な農地をラナ家のものとするなど、国家を完全に私物化していきます。学校はむしろ減少。電気線は、マハラジャの宮殿のためだけに引かれました。

そして、巻き起こりはじめた批判をチャンドラは弾圧します。それは強力な言論弾圧も含みました。多くの人々が投獄されました。

ネパールが国際的に承認されるなどしたチャンドラの時代がラナ支配の絶頂期でした。しかし、この強圧的な支配に対する反発と、第1次大戦後巻き起こる隣国インドの独立運動が、民衆によるラナ支配批判の感情を次第にわきあがらせることになります。

ラナ支配の崩壊

チャンドラの後も、大学講師たちが投獄されたり、政党的な組織「人民評議会」のメンバーが処刑されたりと、圧制は続きました。

しかし1945年、インドにならった形で政党「ネパール国民会議」(今の会議派)が結成されると、その勢力は拡大していきました。マハラジャは弾圧しますが、インドのネルー首相はこれに介入し、弾圧にたいして警告を発します。インドの介入はラナ圧制に大きな影響をもたらしました。

そして名目上の国王だったトリブバンがインドに脱出、同時に会議派勢力が蜂起。マハラジャはインドに仲介を求め、その結果マハラジャの位はなくなり、ラナ家と会議派たちの連立政権が樹立されます(7年革命)。

しかし、それでもネパールの民主化は進みませんでした。次ページであの「謎の国王一家殺害事件」を含む現在までの動きを見ていきましょう。
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