(2006.05.11)

王制と民主政治、マオイスト、そして狭間にいる貧しい人たち。不思議な国、ネパールの政治に関する基礎知識です。ネパールが独立を保った理由から、現在の最新情勢(2006年5月初め現在)まで。

1ページ目 【19世紀になっても独立を「保ててしまった」ネパール】
2ページ目 【迷走するネパールの近代政治、その歴史とは】
3ページ目 【民主政治と国王独裁を繰り返すネパールとマオイストの台頭】

【19世紀になっても独立を「保ててしまった」ネパール】

多民族国家・ネパール

ネパール
中国とインドの狭間にある国、ネパール。北海道の2倍弱の国土に、多くの民族がひしめき、さらにカーストが彼らを細分化している
約2400万人の人口を抱えるネパール。国土は北海道の1.8倍ほどとそれほど大きくありませんが、お隣インド同様、「多民族国家」なのです。

まず、首都カトマンズでは、もともと山地に故郷を持つとされる「パルバテ・ヒンドゥー」が多くを占めています。彼らが全人口の3分の1を占める多数派民族であり、現在の王朝を構成している民族でもあります。

そのため同時に言えることは、「カトマンズだけを見ていては「ほんとうのネパール」はわからない」ということです。カトマンズを一歩出れば、多様な民族がネパールの地に暮らしていることがわかるといいます。

カトマンズ盆地にいるネワール族と、ヒマラヤに近い北部の山岳地帯に住む民族はともにチベット・ビルマ語系の民族です。タマン族・マガル族・グルン族・タカリー族といますが、宗教は仏教・ヒンドゥー教・チベット仏教・その他宗教とさまざまです(ネワール族は仏教)。

一方、南部の平地には北インド系の住民(マイティリ族・ポジブリ族など)が多く住んでいます。今でも文化的には「ネパールというよりインド」であり、ヒンドゥー教が中心、イスラム教徒もいます。全人口の26%ほどが北インド系といわれています。ここには先住民族であるタルー族・ラジバンシ族もいます。

カースト制度が残るネパール

カースト制度とは、インドを中心に古代から続いていた身分制度のことです。

ネパールでは、「パルバテ・ヒンドゥー」や北インド系民族を中心に、このカースト制度が独特な形で残っています。

都市化や近代化にともないカースト制度も多少変容してきています。しかし、いまだ社会に強い影響力を持っているのが現状のようです。

多くの人々はそのカースト(身分)ごとによって別々のコミュニティーのなかで生活しています。同じカーストどうしとしか結婚しない地域、カーストによって職業が決まっている地域、高カーストの子どもが低カーストの大人を呼び捨てにする地域、などが残っています。

このようなことまで考えると、一様に「ネパール人とは」と語ることの難しさ、さらにいうとその「無意味さ」がよくわかるでしょう。

植民地支配を受けなかったネパール

ネパール
イギリスはインド支配のために大きな戦争を繰り返したため、ネパールを本格的に征服する余力はなかった。これはネパールにとってはもちろん幸運だったのだが……
アジア諸国の多くはヨーロッパ諸国(日本も含みますが)による植民地支配の歴史を持っていますが、ネパールにはそれがありません。

ネパールが独立を保つことのできた理由は、「インド征服のために大きな力を使ったイギリスに、ネパールまで侵略する力が残っていなかった」ということにあると考えられます。

ネパールは近代まで諸王朝に分裂していましたが、18世紀後半に今のネパール王国の起源となるゴルカ王朝がほぼネパールを制圧、統一国家としてのネパールが生まれていました。

一方、インドを狙うイギリスは、インドのなかで肥沃な地域を奪うため何度も大きな戦争を繰り返していました。18世紀後半はフランスとも戦ったマラータ戦争で中部インドを、そして19世紀前半のマイソール戦争でインド南部を征服。

さらに19世紀後半のシク戦争でパンジャブ地方など今のパキスタンにあたる地域を制圧し、1857年のシパーヒー(セポイ)の大反乱を鎮めて、ようやくインドを手に入れたのでした。

こんなイギリスにとって、それほど資源が豊かでなく、また他の地域と違って山岳地帯が多いネパールを征服することは、あまり魅力的なことには映らなかったようです。そのため、ネパールは独立を保つことができたのでした。

ネパール独立維持の「代償」

しかし、ネパールにとってやはりイギリスは脅威でした。イギリスも最初は、たやすく手に入れられそうなネパールの一部地域は狙っていました。19世紀はじめには、両国の間で武力衝突も起こっています。

しかし結局、ネパール王朝はイギリスとの友好関係を選択しました。シパーヒー大反乱の時にはイギリスに援軍を送りました。第1次世界大戦のときにはイギリスの要請でヨーロッパにまで軍隊を送りました。

また、イギリスはネパールの人々を傭兵=「グルカ兵」として集めはじめました。ネパール王朝は警戒しましたが、結局イギリスのグルカ兵調達を阻止することはできませんでした。

中西部のマルカ・グルン族を中心としたグルカ兵たちはインド独立後、イギリスとインド軍によって分けられます。

イギリス所属のグルカ兵は現在3000人ほど。イギリス人との差別が大きな問題となっています。インド所属のグルカ兵は2万人ほど。彼らが送られる先はパキスタンとの紛争を抱えるカシミールや、反体制運動の起こっている場所など、危険な場所ばかりです。

こうしたネパールの活動は、ネパールの国際化には大きく貢献したという評価がありますが、しかし、ネパール独立維持のための大きな「代償」であったことも忘れてはならないでしょう。

このような形で「独立を守った」というよりは「独立を維持できてしまった」という、ネパール。そしてそのことによって、国内の近代化は大きく遅れることになります。次ページをみていきましょう。