キャリアプラン/キャリアプラン事例

「ビル再生王」不遇の時代 堀口智顕氏後編(3ページ目)

ビル再生のリーディングカンパニー、サンフロンティア不動産堀口智顕氏の後編。バブル崩壊直前に独立した堀口氏は、厳しい市場環境の中で苦戦を強いられる―――。

執筆者:角田 正隆

DPEショップで失敗

不動産事業以外に手を広げようとして失敗
不遇の時代、「月40万円ぐらい稼げる」という噂を聞き、写真の現像ショップを始めたこともある。当時の貯金の大半にあたる数百万円を費やしてDPE(現像)機械を購入し、妻に店に出てもらい現像ショップをオープンさせた。ところが後日、あるリース会社から電話があり、購入した機械について「リース代金が支払われていないのですが・・・」と連絡が入る。

堀口氏は驚き、早速調べてみると、確かにそれはリース物件であり、売買契約はデタラメだったことを知らされる。リース物件を示すシールもきれいに剥がされていた。しかも機械を数百万円ほど割高に買わされていたというおまけも付いた。売り手側に保証人がいたため全損は逃れたものの、2年ぐらいショップを続たが、結局「コーヒー1杯分も儲からなかった」という始末。何をやってもうまくいかない時期が長く続いた。


賃貸に活路を見出す


不動産の売買はバブル以降大幅に落ち込んだが、比較的堅調だった市場がオフィスビルなどの賃貸仲介だった。賃貸経験者から「バブル期を100とすれば70」という話を聞き、「これなら食っていける!」と判断した堀口氏は、以後オフィスビルの賃貸仲介に注力することにした。

チラシ作成やポスターを電柱に巻きつける営業手法を見よう見まねで覚え、銀座界隈を「しつこい」と言われるぐらい営業して回った。数十万円の仲介手数料が入るごとに「やったやった、ご飯が食える」と大喜びし、社員も少しづつ増やしていった。社員が増えたため事務所を最初のワンルームマンションから、月50万円のオフィスに移転することにしたが、それも「清水の舞台から飛び降りるような」ギリギリの経営が続いていた。

自分の生活のために「社員はうまく使ってナンボ」と考え、社員を叱咤して売り上げを稼ぐことに躍起だった堀口氏に変化が訪れたのはこのころ。「不動産業者とは生き馬の目を抜くもの」と教えられ、元来の素直な性格からか、教えに逆らうことなくいたが、いつしかこの考えに違和感を感じるようになっていた。


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