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3度クビになったボビー・バレンタイン監督(3ページ目)

千葉ロッテマリーンズのボビー・バレンタイン監督は、「パ・リーグのお荷物」と呼ばれた弱小球団を、監督就任わずか2年目で31年ぶりの日本一に導いた。「ボビー・マジック」と呼ばれる、変幻自在の采配術とは?

執筆者:角田 正隆

パッとしない選手時代

低迷するロッテ・マリーンズを劇的に変えた男の指導法
『バレンタイン監督の人材活用術―低迷するロッテ・マリーンズを劇的に変えた男の指導法』伊藤 伸一郎 (著)
バレンタイン監督は、ドラフト1巡目で大リーグの名門「ドジャーズ」に内野手として入団した。ところが選手としては、通算打率.260、441安打、12本塁打。イチローは年間200安打を放つのだから、選手としてはパッとした成績とは言えない。結局5球団を転々と渡り歩き、最後はケガに泣かされ、早くも20代でユニフォームを脱いだ。

しかしバレンタイン監督は、その後すぐに指導者としての道を選ぶ。この変わり身の早さが彼の特技の1つかもしれない。今年のオープン戦でも試合中にベースコーチに立つ他チーム監督を批判しながら、すぐに「選手の緊張を和らげるため」といって自分もベースコーチに立ったこともある。

40代の野球選手も多いが、彼は35歳で大リーグ「テキサス・レンジャーズ」の監督として大リーグのグランドに舞い戻った。

3度クビになった監督

監督としてのキャリアも、決して順風満帆ではなかった。

レンジャーズでは、低迷していたチームを就任2年目にリーグ2位に押し上げ、ア・リーグ最優秀監督賞に輝いたものの、その後パッとした成績が残せず、結局球団から「解任」を通告された。

その後、2軍チーム監督という日陰の時代を経て、95年にも千葉ロッテマリーンズの監督に就任している。就任1年目にロッテを10年ぶりのパ・リーグAクラス入りに導いたが、球団GM広岡達朗氏との確執が勃発。結局「解任」されてアメリカに帰国した。

帰国後、ニューヨーク・メッツ監督に就任した。リーグ2位にはなるが、なかなか優勝できず、「バレンタインは2位にしかなれない監督」と揶揄された。メッツ時代、吉井理人、新庄剛志、小宮山悟など、日本人選手を積極的に活用したことで、日本で最も知られる大リーグ監督になった。積極的に新しいタイプの選手を起用し、チームに刺激を与え、対戦相手を翻弄する戦術は、ここで十分養われていたものと思われる。

2000年、ナ・リーグ優勝を果たしたが、その後チームは低迷。3度目の「解任」を経験して、チームを去った。

実は嫌われてる? バレンタイン監督

しかもバレンタイン監督の指導方法は、決して選手に評判がよいわけじゃない。個性的な選手の多い大リーグでは、どちらかというと嫌われている監督だ。ロッテ監督就任当初も、選手はその起用方法にとまどった。

前日活躍すれば翌日の出場を望むのも当然だ。しかし、監督はコロコロとスターティングメンバーを変える。投手も「完投勝利」という願望があるが、100球も投げれば交代となる。オーダーの変更を好まない選手も多い。

それでも自らの指導方法を貫く信念は尊敬に値する。栄光と挫折、どちらも味わいつくした監督の人なつっこい笑顔は、爽快だが顔に刻み込まれた深いシワから年輪を感じさせる。

人気スポーツだけに、球団やマスコミの圧力、選手のリクエスト、ファンの声などものすごい勢いで渦巻いている。それでも外部の意見に左右されずに、バレンタイン監督のように最後まで信念を貫けるだろうか?


コラム:「ビ~ルカケ、シマショ~!」

ここぞの場面でバレンタイン監督は、日本語でファンや選手に直接語りかける。やはり指導には言葉によるコミュニケーションが欠かせない。移動中などヒマをみつけては日本語を勉強している。1つのテキストをボロボロになるまで読み込むのがボビー流の勉強法だという。



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