文化のるつぼ=ザンジバルの歴史
ザンジバル・ドアと呼ばれる特有の木製ドアの前に座る子どもたち。ドアには精緻な模様が彫られていることが多い ©牧哲雄
街を歩いていると突然現れたティンガ・ティンガ・アートの露天
もともとこの辺りはモンスーン(季節風)の影響が強く、夏は東アフリカからアラビア半島に向けて、冬はまったく逆の風が吹く。この風を利用した貿易は紀元前10世紀頃からあったといわれており、8世紀以降になるとアラビア人やペルシア人の大規模なインド洋貿易が行われるようになった。アフリカからは金や象牙が、アラブ諸国からはガラス細工や織物が流入し、東アフリカの海岸沿いではアフリカの文化とアラブの文化の融合が進んでいった。たとえばこの辺りのスワヒリ語は、アラビア語と東アフリカのバントゥー語が合わさってできた言葉だ。
現在はカテドラルが建っている旧奴隷市場。ここで数十万人の奴隷が売られ、インドや中南米に送られた。そういう意味で、この世界遺産は「負の遺産」としての側面を持つ
オマーンのスルタンだったサイイド・サイードは1832年に首都をザンジバルに移してザンジバル王国を建国。この頃奴隷貿易や香辛料貿易の繁栄によってアラビア人主導によるスワヒリ文化が全盛期を迎えたが、その後はイギリスが勢力を伸ばして東アフリカからインドにかけて植民地化に成功する。
1963年にいったんはザンジバルとして独立するがクーデターが起こって崩壊し、1964年、大陸のタンガニーカと合併してタンザニアとして連合共和国に組み込まれることになった。
インド、アラブ諸国、ヨーロッパ、アフリカが複雑に交錯し、ザンジバルは独自の文化を築いてきた。街並みも、人々も、独自の文化への思いは強く、独立志向が高い。現在もザンジバルには独自の自治政府が存在し、大統領もいる。それがイミグレーションや税関が独自に設けられていることにつながっている。