伏見さんが小説を書かずにいられなかった理由
『魔女の息子』伏見憲明/河出書房新社/1260円 |
『魔女の息子』はゲイのフリーライターである和紀の日常生活を描いています。ハッテン場の暗がりで出会う名前も知らない男たち、老いらくの恋に燃える母親、酔っぱらって暴力を振るっていた父親、ゲイである和紀を憎んでいた兄、そんな兄の娘(姪)、自己顕示欲の塊のような上司の女性、「本当のこと」を言ったばかりに彼女に切られてしまったライターの女性、そんな彼女たちを寛大に受け容れてくれる行きつけのゲイバーのママ、「戦争よりもオーガズムを」と訴えるフェミニスト…和紀もその周囲の人たちも、世間の「こうあるべき」という規範から外れていたり、一癖も二癖もあるような人ばかりですが、そうした人々の生き様を描いてくなかで、容赦なくぶつかる人生の難問が浮き彫りにされていきます。
オープンで前向きで健全な「ハッピーゲイライフ」で彩られているように見える街も、路地を一歩入れば、深い闇のような陥穽が待ち受けています。僕らは、その弱さゆえに、あるいは正直さゆえに、その暗がりに入ったり出たりを繰り返し、世間から後ろ指をさされるような行為にも足を突っ込んでいます。そこに描かれているのは僕ら自身の「影」であり、理屈では割り切れない、どうしようもない人間の業であり、痛みであり、祈りも似た感情です。
『魔女の息子』は、内容の深さ、構成の巧みさもさることながら、その冴え渡った言葉運びには、魂というか、オーラというか、ただ事ではない…ある種「神がかり」的な何かが宿っていたように感じました。だからこそ、人々の心を掴む力を持ちえたのだと思いますし、2003年度の文藝賞に輝き、世間にも評価されたのです。もしまだお読みになっていない方は、ぜひ読んでください。これは、まぎれもない傑作です。
『魔女の息子』が文藝賞に輝いたというニュースは、ゲイコミュニティにも喜びをもって迎えられました(『バディ』編集部で祝賀会が催されたくらいです)。それまで「評論家」という肩書きだった伏見さんが「小説家(作家)」としても認められたことで、たくさんの人たちが「次はどんな小説を書いてくれるんだろう?」と心待ちにするようになりました。